三島由紀夫の不朽の名作「金閣寺」を讀みながら、正しい日本語の學習をしてゐます。つづきです。
言葉がおそらくこの場を救う只一つのものだらうと、いつものやうに私は考へてゐた。私特有の誤解である。行動が必要なときに、いつも私は言葉に氣をとられてゐる。それといふもの、私の口から言葉が出にくいので、それに氣をとられて、行動を忘れてしまふのだ。私には行動といふ光彩陸離たるものは、いつも光彩陸離たる言葉を伴つてゐるやうに思はれるのである。
私は何も見てゐなかつた。しかし思ふに、有爲子は、はじめは怖れながら、私と氣づくと、私の口ばかりを見てゐた。彼女はおそらく、曉闇のなかに、無意味にうごめいてゐる。つまらない暗い小さな穴、野の小動物の巣のやうな汚れた無恰好な小さな穴、すなはち、私の口だけを見ていた。
「何よ。へんな眞似をして。吃りのくせに」
私は何も見てゐなかつた。しかし思ふに、有爲子は、はじめは怖れながら、私と氣づくと、私の口ばかりを見てゐた。彼女はおそらく、曉闇のなかに、無意味にうごめいてゐる。つまらない暗い小さな穴、野の小動物の巣のやうな汚れた無恰好な小さな穴、すなはち、私の口だけを見ていた。
「何よ。へんな眞似をして。吃りのくせに」
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