三島由紀夫の金閣寺を讀みながら正しい日本語を學習してゐます。三島由紀夫がノーベル文學賞候補だつたことを知つてゐる人は何人いるでせうか? あの、愚か極まりない、何を書いてゐるかわからない大江健三郎などとは格が何万倍も違ひます。
次の年の春休みに、父が國民吹くに袈裟をかけた姿で、叔父の家を訪ねてきた。私を二三日京都へ連れて行くといふのである。父の肺患はずゐぶん進んでゐて、私はその衰へにおどろいた。私のみならず、叔父夫婦も京都行を止めるのに、父はきかない。あつになつて思ふと、父は自分の命のあるあひだに、私を金閣寺の住職に引き合はせたかつたのである。
もちろん金閣寺を訪れることは、私の永年の夢であつたが、氣丈に振舞つてゐても誰の目にも重患の病人に見える父と、度に出るのは氣が進まなかつた。まだ見ぬ金閣にいよいよ接する時が近づくにつれ、私の心には躊躇が生じた。どうあつても金閣は美しくなければならなかつた。そこですべては、金閣そのものの美しさよりも、金閣の美を想像しうる私の心の能力に賭けられた。
もちろん金閣寺を訪れることは、私の永年の夢であつたが、氣丈に振舞つてゐても誰の目にも重患の病人に見える父と、度に出るのは氣が進まなかつた。まだ見ぬ金閣にいよいよ接する時が近づくにつれ、私の心には躊躇が生じた。どうあつても金閣は美しくなければならなかつた。そこですべては、金閣そのものの美しさよりも、金閣の美を想像しうる私の心の能力に賭けられた。
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