金閣寺

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 三島由紀夫の不朽の名作金閣寺を讀みながら正しい日本語を學習してゐます。
 その旅は物悲しかつた。舞鶴線は西舞鶴から、眞倉、上杉などの小さな驛々に止つて、綾部を經て、京都に向ふのだが、客車は汚なく、保津峡ぞひのトンネルの多い所では、煤煙が容赦なく車内に吹き込み、そのむうつとする煙のために、何度となく父は咳き込んだ。

 乘客は多少とも海軍に關係のある人が多かつた。三等車は、下士官、水平、工員、海兵團へ面會へ行つた家族などで満員だつた。

 私は窓外のどんよりした春の曇り空を見た。父の國民服の胸にかけられた袈裟を見、血色のよい若い下士官たちの金釦(きんぼたん)をはね上げてゐるやうな胸を見た。私はその中間にゐるやうな氣がした。やがて丁年に達すれば私も兵隊にとられる。しかし、私はたとへ兵隊になつても、目の前の下士官のやうに、役割に忠實に生きることができるかどうか。ともかく、私は二つの世界に股をかけてゐる。私はまだこんなに若いのに、醜い頑固なおでこの下で、父の司つてゐる死の世界を、若者たちの生の世界とが、戰爭を媒介して、結ばれつつあるのを感じてゐた。私はその結び目になるだらう。私が戰死すれば、目の前のこの岐れ道のどつちを行つても、結局同じだつたことが判明するのだらう。

 私の少年期は薄明の色に混濁してゐた。眞暗影の世界はおそろしかつたが、白晝のやうなくつきりした生も、私のものではなかつた。

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このページは、宝徳 健が2014年8月30日 05:03に書いたブログ記事です。

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