金閣寺(歴史的假名遣ひと正しい漢字)

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 つづきです。
 父が咳き入るのを看取りながら、私はたびたび保津川を窓外に見た。それは化學の實驗で使ふ硫酸銅のやうな、くどいほどの群靑いろをしてゐた。トンネルを出る毎に、保津峽は、線路から遠くにあつたらい、また意外に目近に寄り添うて來てゐて、滑らかな岩に圍まれて、その群靑の轆轤(ろくろ)をとどろに廻してゐたりした。

 父は白米の握り飯の辨當を車中でひらくのを恥かしがつた。
「闇米ではないさかいにな。檀家の志だから、よろこんでもろたらええのんや」
 あたりにきこえるやうにさう言つて食べるのだが、父はそのさして大きくない握り飯をひとつ食べるのがやうやうであつた。

 私にはこの煤けた古い列車が、都を目ざしてゆくやうには思へなかつた。この汽車は死の驛へ向つて進んでゐるやうに思はれた。かう思ふとトンネル毎に車内に充ちたる煙は、燒場の匂ひがした。しかし、これから美しいものが見られるのだ。

 日は傾きかけ、山々は霞に包まれてゐた。數人の見物が、私たち父子と前後してその門をくぐつた。門の左方には、鐘縷をめぐつて殘んの花をつけた梅林があつた。

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このページは、宝徳 健が2014年8月31日 09:09に書いたブログ記事です。

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