文豪 三島由紀夫の金閣寺を讀みながら、本當の日本語を学んでゐます。それにしても、三島由紀夫と谷崎潤一郎はすごい。
つづきです。
つづきです。
私はいろいろに角度を變へ、あるひは首を傾けて眺めた。何の感動も起こらなかつた。それは古い黑ずんだ小つぽけな三階建にすぎなかつた。頂きの鳳凰も、鴉(からす)がとまつてゐるやうにしか見えなかつた。美しいどころか、不調和な落ち着かない感じさへ受けた。美といふものは、こんなに美しくないものだらうか、と私は考へた。
もし私が謙虚な勉強好きの少年だつたら、そんなにたやすく落澹する前に、自分の鑑賞眼の至らなさを嘆いたであらう。しかし私の心があれほど美しさを豫期したものから裏切られた苦痛は、ほかのあらゆる反省を奪つてしまつた。
私は金閣がその美をいつはつて、何か別のものに化けてゐるのではないかと思つた。美が自分を護るために、人の目をたぶらかすといふことはありうることである。もつと金閣に接近して、私の目に見にくく感じられる生涯を取り除き、一つひとつの細部を點檢し、美の核心をこの目で見なければならぬ。私が目に見える美をしか信じなかつた以上、この態度は當然である。
もし私が謙虚な勉強好きの少年だつたら、そんなにたやすく落澹する前に、自分の鑑賞眼の至らなさを嘆いたであらう。しかし私の心があれほど美しさを豫期したものから裏切られた苦痛は、ほかのあらゆる反省を奪つてしまつた。
私は金閣がその美をいつはつて、何か別のものに化けてゐるのではないかと思つた。美が自分を護るために、人の目をたぶらかすといふことはありうることである。もつと金閣に接近して、私の目に見にくく感じられる生涯を取り除き、一つひとつの細部を點檢し、美の核心をこの目で見なければならぬ。私が目に見える美をしか信じなかつた以上、この態度は當然である。
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