久しぶりに、三島由紀夫や谷崎潤一郎を讀んでゐます。こんなにすごいものかと改めて感じてゐます。
つづきです。
つづきです。
父の顔は初夏の花々に埋もれてゐた。花々はまだ氣味がわるいほど、なまなましく生きてゐた。花々は井戸の底をのぞき込んでゐるやうだつた。なぜなら、死人の顔は生きてゐる顔の持つてゐた存在の表面から無限に陥沒し、われわれに向けられてゐた面の祿のやうなものだけを殘して、二度と引き上げられないほど奥のはうへ落つこちてゐたのだから。物質といふものが、いかにわれわれから遠くに存在し、その存在の仕方が、いかにわれわれから手の届かないものであるかといふことを、死顔ほど如實に語つてくれるものはなかつた。精神が、死によつてかうして物質に變貌することで、はじめて私はさういふ局面に觸れ得たのだが、今、私には徐々に、五月の花々とか、太陽とか、机とか、校舎とか、鉛筆とか・・・・・、さういふ物質がなぜあれほど私によそよそしく、私から遠い距離に在つたか、その理由が呑み込めて來るやうな氣がした。
さて、母や檀家たちは、私と父との最後の對面を見戍(みまも)つてゐた。しかしこの言葉が案じしてゐる生ける者の世界の類推を、私の頑なな心は受けつけなかつた。對面などではなく、私はただ父の死顔を見てゐた。
さて、母や檀家たちは、私と父との最後の對面を見戍(みまも)つてゐた。しかしこの言葉が案じしてゐる生ける者の世界の類推を、私の頑なな心は受けつけなかつた。對面などではなく、私はただ父の死顔を見てゐた。
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