今日から第2章です。面白いですね。
第2章 酒場を遊び場に
「これからの長い人生、竹原の酒づくりで終わってしまうのか」
洋酒に興味、熱心な働きに評価
竹鶴政孝は明治二十七(1894)年六月二十日、塩田で栄えた広島県竹原町(現竹原市)に生まれた。呉と尾道の真ん中あたり、瀬戸内海に面し、豊かな自然に囲まれた美しい町だ。
竹鶴家は頼家、吉井家と並ぶ竹原の三大塩田地主のひとつ。享保十八(1733)年から酒造業も手がけていた。
竹鶴という珍しい名前は、ある時、裏の竹林に鶴が飛来し巣を作ったのに由縁する。「古来、松に鶴と聞くも、竹に鶴とは瑞兆なり」と「小笹竹鶴」を屋号にし、明治になり、そのまま竹鶴が姓になった。
正孝の家は祖母の代に分家し、「浜の竹鶴家」と呼ばれ声援魚を営んでいた。明治十二年、本家の主人夫妻が、長男誕生直後に急逝。政孝の両親、敬次郎とチョウが後見人として本家の面倒をみることになる。そのため政孝は本家の産室で生まれ、本家でそだった。
「これからの長い人生、竹原の酒づくりで終わってしまうのか」
洋酒に興味、熱心な働きに評価
竹鶴政孝は明治二十七(1894)年六月二十日、塩田で栄えた広島県竹原町(現竹原市)に生まれた。呉と尾道の真ん中あたり、瀬戸内海に面し、豊かな自然に囲まれた美しい町だ。
竹鶴家は頼家、吉井家と並ぶ竹原の三大塩田地主のひとつ。享保十八(1733)年から酒造業も手がけていた。
竹鶴という珍しい名前は、ある時、裏の竹林に鶴が飛来し巣を作ったのに由縁する。「古来、松に鶴と聞くも、竹に鶴とは瑞兆なり」と「小笹竹鶴」を屋号にし、明治になり、そのまま竹鶴が姓になった。
正孝の家は祖母の代に分家し、「浜の竹鶴家」と呼ばれ声援魚を営んでいた。明治十二年、本家の主人夫妻が、長男誕生直後に急逝。政孝の両親、敬次郎とチョウが後見人として本家の面倒をみることになる。そのため政孝は本家の産室で生まれ、本家でそだった。
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