凛として 十三

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 つづきです。
 当時、洋酒メーカーのトップだった大阪の摂津酒造に、学校の一期生の名前を見つけると、直接訪ねていった。

「徴兵検査後、家業を継がなくてはならないのですが、洋酒づくりに興味があります。それまでだけでも働かせてほしい」

 話を来た阿部嘉平衛社長は「明日は出社しなさい」と答えた。若者らしい率直さを阿部は気に行った。

 卒業を待たずに働き始めた政孝は、「新人の学校出に何ができる」と、古株の職人にけむたがられながらも、会社に泊まりこんで勉強した。妥協を知らず徹底的にこだわる性格。その熱心な働きぶりを、阿部は高く評価した。

 摂津酒造は明治四十四年に模造ウイスキーをつくり始め、当時は他社製品の「赤玉ポートワイン」「ヘルメスウイスキー」などの製造を請け負っていた。

 その夏、ぶどう酒のビンが店頭で爆発する事件が頻発。アルコールの殺菌が不十分なため暑さが酵母作用が起きたのだ。ところが、摂津酒造で政孝が手がけた赤玉ポートワインは丁寧に殺菌していたため、一本も割れなかった。「新しく来た若いのは腕がいい」と、関係者たちの評判になっていった。


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このページは、宝徳 健が2014年10月 5日 21:49に書いたブログ記事です。

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