凛として 十六

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 政孝がスコットランドに旅立ちます。
 見送りには阿部社長をはじめ摂津酒造の社員一同、竹原から両親もそろってやってきた。その中には壽屋の鳥居信治郎(後のサントリー創業者)、日本製壜の山本爲三郎(後のアサヒビール初代社長)の姿もあった。

第3章 新妻を伴い帰国
「私も共に生き、マサタカさんの夢のお手伝いをしたい」


 周囲の反対、やがて祝福に

 スコットランドの朝食の定番にキッパーズ(ニシンの燻製)がある。広島で育ち魚好きの竹鶴政孝にとって、少々塩辛くともこのキッパーズは故郷を思い出すうれしい食べ物だった。しかし、留学から半年過ぎたころ、キッパーズすら食べられないほどのホームシックになる。

 自伝「ウイスキーと私」では、「夜、うとうとしているあいだに涙が出ていて、朝、気づくと枕がぐっしょりぬれている。そして日本に帰った夢をよく見た。母が出て来て『意義留守での勉強は終わったのか』と私に質問する。返事ができないでいると『そんなことでどうします。すぐに引き返しなさい』としかられる、帰るといっても船がない。どうしようと困って目がさめる」と、そのつらさをつづっている。

 このころ出会ったのが同じグラスゴー大学で学ぶイザベラ・リリアン(エラ)・カウンの姉、ジェシー・ロバータ(リタ)だった。姉妹の父はグラスゴーの郊外で開業医をしていたが前年、急逝。大きな屋敷で母と姉弟四人が暮らしていた。

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このページは、宝徳 健が2014年10月 9日 02:15に書いたブログ記事です。

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