凛として 二十三

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 摂津酒造を辞めてしまつた政孝の運命やいかに。
 政孝は帝塚山(大阪市)の自宅近くの中学で化学教師をし、妻のリタは英語とピアノを教えながら"浪人生活"は続いていた。

 翌年早春、そんな政孝のもとに思いがけない客が訪れる。寿屋(現サントリー)の社長、鳥井信治郎だった。鳥井もまた本格的な国産ウイスキーづくり夢みていた。

 鳥井は明治に三十二(1899)年、大阪市に鳥井商店を開業。四十年に発表した赤玉ポートワインが大当たりし大正十年には寿屋を設立、次々と事業を拡大していた。

「日々新たに サントリー 百年史」によると、当時、寿屋でもウイスキー蒸留所建設には、反対の声が圧倒的だった。

 だが、鳥井には強い信念と情熱があった。

「わしには赤玉ポートワインという米のめしがあるよって、このウイスキーには儲からんでも金を注ぎ込むんや。自分の仕事が大きくなるか小さいままで終わるか、やってみんことにはわかりまへんやろ」と、蒸留所計画を強行突破する。





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このページは、宝徳 健が2014年10月24日 08:11に書いたブログ記事です。

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