金閣寺(歴史的假名遣ひと正しい漢字)

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 この作品を學習してゐると、日本語の寛容さがわかります。現代假名遣ひは杓子定規なのですね。日本語は、本来もつと自由に使ふものです。

 つづきです。
 これだけ言ひ了つた私の顔には、何か恥ずかしいことを言つたあとのやうに、夥しい汗が流れてゐた。金閣に對する私の異様な執着を打ち明けた相手は、ただ鶴川一人であつた。が、それをきいてゐる鶴川の表情には、私の吃音をききとらうと努力する人の、見馴れた焦燥感があるだけだつた。

 私はかういふ顔にぶつかる。大切な秘密の告白の場合も、美の上ずつた感動を訴える場合も、自分の内臓をとりだしてみせるやうな場面も、私のぶつかるのはかういふ顔だ。人間はふつう人間にむかつてこんな顔をしてみせるものではない。その顔は申し分のない忠實さで、私の滑稽な焦燥感をそのんままに眞似、いはば私の恐ろしい鏡のやうになつてゐた。どんなに美しい顔でも、さういふときは、私とそつくりの醜さに變貌するのだ。それをみたとたん、私が表現しようと思ふ大切なものは、互にひとしい無價値のものの墜ちてしまう。・・・・

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このページは、宝徳 健が2014年10月26日 06:45に書いたブログ記事です。

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