凛として 二十七

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 政孝が寿屋を退社しました。
 政孝は、東京から汽車と連絡船を乗り継いで三十時間、念願の北海道余市町に工場建設を決める。良質な水に加え、麦芽を乾燥させるためのピート(草炭)が取れ、りんごの産地でもあった。

「まずはりんごジュースで食いつなげる」

 そう決めた政孝は社名を「大日本果汁株式会社」とし昭和九年、初めて自分の会社を設立した。資金はわずか十万円。山崎工場のに十分の一だった。

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このページは、宝徳 健が2014年11月 1日 05:44に書いたブログ記事です。

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