今日から第五章です。
第5章「ニッカ」始動
「みんな、積荷に向かって思わず敬礼してしまいました」
満を持しての初出荷
社員一丸、経営難を乗り越えて
昭和九(1834)年七月2日、竹鶴政孝は北海道余市町に「大日本果汁株式会社」を設立した。
出資は政孝と、加賀商店(後の加賀證券)創業者の加賀正太郎、政孝が住んでいた帝塚山(大阪市)の大地主の芝川又四朗l、留学中に知り合った柳沢保恵伯爵(日本統計学の祖)の四人。政孝は専務として会社の運営を任される。
余市にはウイスキーづくりに必要なものがすべてあった。寒冷地で適度に湿度のある気候風土、良質な水、豊富なピート(草炭)層。さらに北海道は大麦の産地で樽材になる木も潤沢だった。蒸留に必要な石炭もある。
「霧がたちこめる朝なども、懐かしいスコットランドにそっくりだ」と、政孝は迷うことなく余市に決めた。
しかし、政孝は最初からウイスキーをつくるつもりはなかった。それゆえに「大日本果汁」という社名にしたのだ。
「みんな、積荷に向かって思わず敬礼してしまいました」
満を持しての初出荷
社員一丸、経営難を乗り越えて
昭和九(1834)年七月2日、竹鶴政孝は北海道余市町に「大日本果汁株式会社」を設立した。
出資は政孝と、加賀商店(後の加賀證券)創業者の加賀正太郎、政孝が住んでいた帝塚山(大阪市)の大地主の芝川又四朗l、留学中に知り合った柳沢保恵伯爵(日本統計学の祖)の四人。政孝は専務として会社の運営を任される。
余市にはウイスキーづくりに必要なものがすべてあった。寒冷地で適度に湿度のある気候風土、良質な水、豊富なピート(草炭)層。さらに北海道は大麦の産地で樽材になる木も潤沢だった。蒸留に必要な石炭もある。
「霧がたちこめる朝なども、懐かしいスコットランドにそっくりだ」と、政孝は迷うことなく余市に決めた。
しかし、政孝は最初からウイスキーをつくるつもりはなかった。それゆえに「大日本果汁」という社名にしたのだ。
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