凛として 三十三

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 つづきです。
 政孝の伝記「琥珀色の夢を見る」によると、芝川が「一、二年で事業を投げ出すものではない。加賀家が協力する限り、私は竹鶴の技術を信じてどこまでももり立てる覚悟である」と主張し、会社は存続した。

 昭和十一年夏、政孝はウイスキーの蒸留を始める。経営難を心配していた出資者たちも、「竹鶴がとうとう本音を始めよった」と、黙って見守ってくれた。

 そうして十五年十一月、第一号ウイスキーが出荷された。初めて自分の手だけで産みだしたウイスキーを政孝は、「大日本果汁」を略して「ニッカウヰスキー」と命名した。「語呂もいいしネオンの場合もスペースが少なくてすむ。一定スペースの場合も大きく書けるという利点がある」とカタカナ三文字にしたのだ。

 初出荷の日、社員全員が門に整列し、馬車に積まれたウイスキーを見送った。

「みな、積荷に向かって思わず敬礼していました」

 小山内はその時の情景をはっきりと覚えている。

 前年、第二次世界大戦がはじまり、余市蒸留所は海軍の監督工場に指定されていた。

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このページは、宝徳 健が2014年11月10日 01:50に書いたブログ記事です。

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