金閣寺(歴史的かな遣ひと正しい漢字)

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 五月のよく晴れた日であった。インクラインはもう使はれてゐず、船を引き上げる斜面のレールは錆びて、レールはほとんど雑草に埋もれてゐた。その雑草には白いこまかな十字形の華が風にわなないてゐた。インクラインの斜面の起こるところまで、汚れた水が淀み、こちら岸の葉櫻並木の影をどつぷり涵(ひた)してゐた。

 私たちはその小さな橋の上で、何の意味もなしに、みずのおもてを眺めてゐた。戰爭中の思ひ出のはうばうに、かういふ短い無意味なじかんが、鮮明な印象でのこってゐる。何もしてゐなかつた放心の短い時間が、時たま雲間にのぞかれる青空のやうにはうばうに殘つてゐる。さういふ時間が、まるで痛切な快樂の記憶のやうに鮮やかなのはふしぎなことだ。

「ええもんやな」

と私はまた、何の意味もなく、微笑して言つた。

「うん」

 鶴川も私を見て微笑した。ふたりはこのニ三時間が自分たちの時間であることをしみじみ感じてゐた。

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このページは、宝徳 健が2014年11月16日 09:30に書いたブログ記事です。

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