凛として 三十九

| コメント(0) | トラックバック(0)
 今日で第五章は終はりです。次回から第六章です。リタさんのことに話の内容が移つてきます。
 一方で仕事場での政孝は一切の妥協を許さなかった。ことに「商品の質に通じる」と衛生管理にはうるさかった。

 後年、政孝の東京本社勤務が増えたころ、政孝が余市に戻ってくることがわかると、政孝のカミナリを恐れて、社員たちは前日から工場の掃除にはげんだ。

「最初にスコットランドで勉強した竹鶴さんには、日本人に本物を伝えなくては、という強い使命感があったと思います」と宇野はいう。

 十二年入社の渡部政治が、兵役を終えて帰宅すると、留守の間に、政孝が家族に毎月四十円を届けていたことをしった。

 労働組合をつくるようにと提案したのも経営者の政孝だった。

「戦後、毎日のように物価が上がって苦しかったとき、『いくらあったら生活できるか組合で示せ』とおっしゃった。できる限りのことはするからと」

 英国仕立てのダブルの背広に烏打帽。立派なカイゼルひげと、写真に残る政孝は、ワンマンなカリスマ創業者のイメージが強い。しかし、創業初期の社員はみな、政孝のことを敬愛を込めて懐かしそうに語る。

 工藤は、今も政孝の話をすると涙が出る。

「仕事を一歩離れたら、尊敬するいいおやじのような存在でした。人生の何もかも教えてもらった」

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/5822

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2014年11月23日 06:40に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「昨日(皇紀弐千六百七十四年十一月十八日の日誌)」です。

次のブログ記事は「金閣寺(歴史的假名遣ひと正しい漢字)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。