英霊たちの言霊 其の七

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 特攻は「熱望」「望」「否」で出陣するものを募りました。つまり、その三つの選択させたのです。現在の多くの書物は、「熱望を選択せざるを得ない雰囲気だつた」と書いてゐます。まつたくの嘘です。「望」を選択した者でも特攻には行かせませんでした。

 なぜ、事實をねじまげて、我が國を落とし込めようとするのだらうか?

 今日は、早稻田大學 斎藤勇命です。二囘に分けて紹介します。
斎藤勇命
北海道出身
海軍第十三期飛行科予備學生
大正十年一月十七日生まれ
昭和二十年四月六日沒
満二十四歳
海軍大尉

「伏見に育ちて」これは斎藤大尉の兄源太郎夫人キンさんとその子息博志氏が、孫や曾孫に添寢して、思ひ出し思ひ出し語つて聞かせた斎藤家の昔話をまとめた本。
以下は、キンさんの大尉の想ひ出です。

「私が十八歳で嫁にきた時、勇ちゃんは六歳で自分の子供同樣でした。姉さん姉さんとなついて、早稻田大學を卒業して特攻隊の小隊長として沖縄の海に散りました。若いのに可哀想でした。お嫁さんも決まつてゐたのの・・・。
 勇ちゃんの戦死したのは四月六日、お嫁さんは東京の鈴木さんの娘さんでしたが、その年の八月に急性肺炎で勇ちゃんの名を呼び通して亡くなりました。
 勇ちゃんの遺骨といっても名前を書いた紙切れ一枚でしたので、骨箱にふたりの名前を書いて一緒に入れ、斎藤家の墓地に納めました。
 勇ちゃんの十三回忌に沖縄の北霊塔に参ってきました。その時、般若心經の寫經を持参したのですが、奉納できず残念ながら持ち帰りました。海は青くきれいで、この海に突入したのかと思うと涙が出て困りました。ジッチャンとバッチャンはどんなに悲しかったことかしら。
 勇ちゃんの遺書がみつかりましたのでのせました。戰死前夜、一人部屋にこもり、あすの出陣を前に故郷を思ひ、両親、兄弟、甥、姪に書いた手紙です。出生して二年、三沢まで飛んできたのですが、空襲が激しく札幌まではこられず引き返して、一度も、親、兄弟に會うことできずに戰死したのです。どんなに悲しかつたことでしょう。涙で涙でこの手紙を讀み胸がはりさけるおもひです」

 遺書 つづく

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このページは、宝徳 健が2014年11月27日 05:19に書いたブログ記事です。

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