凛として 四十五

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 つづきです。
 第一期社員の小山内祐三は、よくリタの外出のお供をした。

「いつも特高警察」が見張っていました。家のラジオのアンテナを暗号発信機じゃないかと調べにきたこともある。リタさんもだんだん遠慮して出歩かなくなって、かわいそうでした」

 戦争中の気苦労もあったのだろう。二十年代後半から、もとも丈夫ではなかったリタは体を壊し、夏は余市で、冬は鎌倉の家で過ごすことが多くなった。

 毎週のように政孝の家の手伝いにいっていた社員の工藤光家は、三十五年十二月二十四日も竹鶴家にいた。

「クリスマス・イブの用事を済ませて帰ろうとすると、いつものように『コーヒーを飲んでいきなさい』って。帰ろうとすると、手を握ってもう一杯飲んでいきなさいっておっしゃって・・・」

 翌年一月十七日早朝、工藤は政孝に呼び出された。リタが亡くなった。

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このページは、宝徳 健が2014年11月29日 09:32に書いたブログ記事です。

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