昨日のつづきです。
井上毅は云ひます。
「支那、ヨーロッパでは、ひとりの豪傑がおつて、多くの土地を占領し、ひとつの政府を立てて支配し、その征服の結果をもつて國家の釈義(意味)となすべきも、御國(日本)の天日嗣(あまひつぎ:天皇)の大御業(おおみわざ:なさつてこられたこと)の源は、皇祖の御心の鏡もて天が下の民章をしろしめすといふ意義より成り立ちたるものなり」
要するに、鏡といふものは、それで人々の心を照らし、そこに映つたものを觀るためのものであるが、それが「知る」といふことであり、そこから「しらす」といふ言葉は誕生してゐます。
「かかれば御國(日本)の國家成立の原理は、君民の約束にあらずして、一つの君德なり。國家の初めは君德に基づくといふ一句は、日本國家學の開巻第一に説くべき定論こそあるなれ」
すなはち、外國では、國家成立あるひは、憲法成立は、君民の約束といつた形、あるいは國家契約といつた形で成り立つているかもしれませんが、我が國では、なによりも無私の心で神々の心、民の心を知らうとされ、それに自らを合わせやうとされる天皇の「德」によつて國家は始まつてゐます。これは非常に重要なことです。憲法といふ名の文章でしかない日本國憲法は、これを全く無視しています。だから憲法(體質(体質):constitution)ではありません。そして、敎育勅語の最初の文章はとても大切なのです。
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ」
はるか數千年まえから、このやうな考えで始まつた奇跡の國、我が國で、一貫して天皇陛下が「シラス」といふ德をお積みになられたのです。だから續きました。
だから、世界最古の國です。
大日本帝國憲法を讀みもしないで、批判する、心なき日本國民(私は敢えてこの人たちを臣民と敬意をこめて呼びません)、きちんと我が國を學ばない、國籍だけの日本人に告げます。
井上毅は。大日本帝国憲法の第一条案として、以下を挙げました。
日本帝國ハ萬世一系ノ天皇ノ治(しら)ス所ナリ
しかしながら、かういふことを學んでゐない、伊藤博文から「法律用語としていかがなものか」と云はれ最終的に、
大日本帝國ハ萬世一系の天皇之レを統治ス
となりました。「統(す)べる」これも「シラス」です。「治める」これも我が國では「シラス」です。だから、我が國の統治者は、唯一「シラス」を實行されている天皇陛下以外に考へることができないのです。
極端な話、この一文だけでも我が國では憲法は成り立ちます。國體そのものです。日本国憲法は、我が國の憲法ではないのです。その意味がお分かりいただけたでせうか?
コメントする