【第八十參號:神道の素晴らしさ】
いつも士魂商才をお讀みいただき感謝申し上げます。「士魂商才(しこんしょうさい)」第八十參號です。タイトルは「神道の素晴らしさ」です。
世界史を正しく學べば學ぶほど、人間といふのは殘酷だなあと思ひます。旧約聖書を讀むと、「人間は、自分自身では自分を律することができない」から、神にそれを依存してゐることがわかります。ソドムとゴモラの話などはまさにさうです。
今も續くイスラムとキリスト敎の戰ひなどもさうです(實際にはカトリック敎會主義が寛大だつたイスラムをグチャグチャにしたのですが)。ISILなど、イスラム革命を興すといふ考へ方を持つてゐますので、彼らからすれば「なぜ、自分たちのやつてゐることが惡ひのか」となります。まあ、ISILのやつてゐることは支那とあまり變はりはありませんが。だから支那は、ISILを非難しません。
他國では、異敎徒は「殺さなくてはならない」存在でした。それが宗敎戰爭を經て「異敎徒は「殺さなくてもよい」存在をしぶしぶ認めました。そのやうな歴史ですから「正しい歴史を知つてゐる。それだけで殺す十分な理由になる」が彼らの常識です。
我が國の神道はどうでせうか? シラスといふ人間社會における至高・究極の國體を作り上げました。爭ふという概念がほとんどありませんでした。大日本帝國憲法には、なんと「主權」といふ言葉がありません。つまり、そんな概念は不要な、そして、我が國臣民、いえ、人間としての理想の生き方を示したのが、「神道」です。その素晴らし人間社會のあり方を、憲法といふ名の文章でしかない日本國憲法がぶち壊してしまひました。
人間社會の理想である神道があるからゆえ、我が國では宗敎戰爭がありませんでした。いくら歐州の國々が我が國に宗敎戰爭をしかけても、びくともしませんでした。それどころか、世界でただひとつ我が國のキリスト敎(たかだか人口の1%しかいませんが)は、素晴らしいものに育つてゐます。つまり、あの悲惨なおよそ人間を人間として取り扱わないやうなカトリック敎會主義でさへ、我が國に入ると、穩やかな敎へとなります。さうです、アプリケーションソフトにすぎない他國の宗敎が、神道といふ素晴らしいオペレーションソフトの上で、その姿を變へて、動き出すのです。二十一世紀は、日本の時代だと最近、ささやき始められました。我が國臣民が、もう一度、しつかりと我が國を見つめる必要があります。
今月號もお樂しみください。
感謝合掌
皇紀弐千六百七十五年弐月吉日
株式會社 經營戰略室
代表取締役 寳德 健
宝徳さん いつも士魂商才ありがとうございます、玉村店長にも渡しておきます。
先月は、講習会ありがとございました、そして、五十円本もありがとうございました。
和性先生、ありがとうございます。いつも士魂商才をお読みいただき感謝します。研修のフォローもしますね。また日程の打ち合わせをさせてください。