三權分立の弊害(皇紀弐千六百七十五年八月十三日)

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 今の我が國には、とてつもない言論の不自由があります。そのくせ、左翼の言論の放言に少しでも文句を云ふと、「言論の自由」を、彼らは叫びます。

 例へば、「核の保有を『議論』する」ことさへ、今の我が國では認められません。言論の自由ではないのでせうか?このブログで繰り返し書いた國民主權、基本的人權、平等主義がいかに危ういものかを議論することなどもつての外です。この三つが今の我が國をめちゃくちゃにしてゐるといふ事實があるのの。三權分立もさうです。
 三權分立は素晴らしい制度で、これに意を唱へることなど許される雰囲気ではありません。

 しかし、實際に、三權分立をこれほど厳格に運用しようとしてゐるのは、アメリカと日本だけであり、そして、アメリカは三權分立があるが故に、國民の選擧で選ばれた行政の長である大統領の權限が恐ろしく弱められ、司法が我が物顔で振る舞つてゐます。アメリカ大統領は世界で一番權限が弱い長なのです。

 我が國でもそうです。といふか、我が國の三權とは、實質なにか・・・。

 司法:檢察庁、立法:内閣法制局、行政:財務省です。

 最高裁は、内閣法制局長官出身の一人を除けば法律の素人です。なので、自然檢察が司法を支配します。立法の世界では、内閣法制局にかなふ機關はありません。「國會は國權の最高機關であり、國の唯一の立法機關である」などといふ憲法の表現など嘘っぱちです。そして行政は、予算を一手に握り、國税庁の査察權を有している財務省が握つてゐます。

 官僚が國を支配することがいかに危険かは、先の大戰で、我が國を滅ぼしたのが官僚であることをみれば明らかです。

 この状態を作り出しているのは、憲法と云ふ名の文章でしかない日本國憲法です。言論の不自由を作り出してゐのは憲法と云ふ名の文章でしかない日本國憲法なのです。この憲法は、我が國臣民を、ダメにしている邪敎なのです。

 眞の言論の自由を取り戻すために、事實、眞實、眞理を學び、選択を誤らない賢い臣民になりませう。

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このページは、宝徳 健が2015年8月14日 07:03に書いたブログ記事です。

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