獺祭忌(皇紀弐千六百七十五年九月十九日)

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 今日は、獺祭忌です。明治の偉人、正岡子規の命日です。沒が千九百二年ですから、百三年前ですね。
 子規は、辞世の句を三つ、あの惡い軆で、自ら筆を執り、書きつけた後、意識を失いました。翌日九月十九日未明に息を引き取りました。三十六歳の若さです。

 今でもあるのかどうかわかりませんが、「日本人の死生観」といふ本がありました。學生時代に讀みました。そのときに、敗戰後、ぬくぬくと育つてきた自分にはない感覺が襲ひ、愕然とした經驗がありあます。

 どうやつて死ぬかを常に見つめながら生きる。正岡子規はまさに、さういふ死生觀を持つた人間でした。ただの歌人や文學者としてなど紹介して欲しくない。私淑する人間の一人です。もし、正岡子規がいなかつたら、我が國文化・文明の何割かは壊れてゐたでせう。
 
 「もし、〇〇がいなかつたら」。例えば、もし、井上毅がいなかつたら、我が國の精神文化は崩壊してゐたでせう。なのに、正岡子規のことも井上毅のことも、臣民は殆ど知らない。國賊サザンなどの歌で踊つて喜んでゐるのがせいぜいです。「もし、寳德がいなかつたら・・・」と呼ばれる生き方をしたいものです。

 子規の辞世の句は、三つとも糸瓜(へちま)を詠んでゐます。

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

痰一斗糸瓜の水も間に合はず

をとゝひのへちまの水も取らざりき

 ここまで書き、後は絶命まで目が覺めませんでした。

 なぜ糸瓜かつて?脊椎カリエスの子規は、いつも咳で苦しんでゐました。糸瓜の蔓を切って液をとり、飲むと痰が切れ、咳をとめるのによいとされてゐます。なので、子規の家でも庭に糸瓜をを育てていたのである。

 とくに十五夜の夜にとるのがいいといはれていました。子規が亡くなる二日前が十五夜でしたがなんと、、そのとき、糸瓜の蔓から水を取るのを忘れてしまつたのです。三句目に「おとヽひのへちまの水も取らざりき」とあるのは、そのことを指してゐます。

 どれほど苦しい闘病生活だつたのでせうか? でも、子規の著作を讀むと、常に挑戰的であり、常に明るく、常に國家のことを考へてゐます。病氣の苦しさも出てきますが、そこから逃げずに、常に、苦しさと對峙してゐます。明治の男とは、なぜにかくも強いのでせうか。

 最初の句などは、生死の境目に來てゐる自分を死んだ側に置いて詠んでゐます。

 ああ、まだかなはない。明治人に。

 私の図書館にも子規の著作がたくさんあります。もう一度讀みます。

 この糸瓜を辞世の句にしたことから、子規の命日は「糸瓜忌」とも云はれてゐます。また、子規の別號から、「獺祭忌」とも呼ばれてゐます。

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このページは、宝徳 健が2015年9月19日 03:31に書いたブログ記事です。

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