心學 2(皇紀弍千六百七十五年十月一日 弍)

| コメント(0) | トラックバック(0)
 我が國は、宗敎がなくてもどの國をも超越した道德を築き上げた世界で唯一の國でした。過去形なのは、我が國が美しくなくなつたからです。でも、そのDNAは殘つてゐるので、また復活させませう。

 武士道、心學どれも、我が國の先輩たちが、自らの心を耕し、構築してくれた生き方です。それを私たちは、髙めて繋げなければいけないのに、低めて斷絶させやうとしてゐます。今、生きるものは、過去の先輩たちが築き上げたものを「高めてつなぐ」義務があります。國も企業も家も。敗戰後の私たちにはその感覺がとても低くなつてゐます。憲法といふ名の文章でしかない 邪敎 日本國憲法と不埒な敗戰後敎育が我が國をむちゃくちゃにしてしまひました。

 まあ、そんなに堅苦しく考へなくても樂しめるのが心學です。前書きから紹介します。「心學 道話全集壱巻」からです。
辯言(弁言)

 面白い書物―それは幾らもある。
 ためになる書物―それも多々ある。
 面白くて而もためになる書物は、いかゞ?存外少ないらしい。

 なぜならば、一般に、面白い書物は、ためにならず、ためになる書物は、面白くないといふことになつてゐるから。

 けれど書物の最上乘なるものは、面白くて而もためになる書物でなくためになる。

 面白くて而もためになる書物―それはどんな書物だらう?どこかにさうした書物があるか―かう思つて、百方詮索の揚句、われらは遂に心學道話に相到した。

 心學道話―なるほどこれなら、間違ひなく面白い。そして間違ひなくためになる。

 心學道話の創始は、今を去ること約二百年に在つて、石田梅巌を開祖とする。二世手島渚庵三世中澤道二を經て、その學海内に廣まつた。柴田鳩翁、脇坂義堂、奥田賴杖、布施松翁などは、心學中の錚々(そうそう)たるものだ。

 その説、要は「本心を知れ」といふに在る。五倫、五常、一切の道德を擧げて、悉(ことごと)く無我の本心に歸着せしめ、これを證するに、忠臣孝子、節婦忠僕の事跡を以てし、時に落語的笑語を引用して、聽者の了解に便ならしめてゐるところは、神、儒、佛、老を打つて一丸とした一大平民道德敎と見てよい。

 さればこそ面白いのだ。

 さればこそためになるのだ。

 乃(すなは)ち前記諸家の著作物中、その主要なるもの數十種―これ殆ど重なる心學道話書の全部である―を取つて、「心學道話全集」六巻を結成し、あまねく江湖に提供する。

 毎書、懇切丁寧な頭註を施して、本文の意味の一段明瞭ならんことを期してゐる一事を特記したい。

 思ふに、今の腐敗時代に方つて、人心覺醒の警鐘たるべきものは、本全集を措いて外にはあるまい。

 敢へて有心の士に告げる、急々本全集一部を座右にして、修省の料に充て、且ついはゆる面白き書物の面白き所以、ためになる書物のためになる所以を看取せられんことを。至禱。

發行者敬白

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/6033

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2015年10月 1日 06:33に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「ルーティンと期日目標の變更(皇紀弍千六百七十五年十月一日)」です。

次のブログ記事は「我れこそはローマ演説(皇紀弍千六百七十五年十月二日)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。