心學 4(皇紀弐千六百七十五年十月十日 弐)

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 心學。これほどのものを、我が國の先輩たちが創り、そして、殘してくれました。學習しないと失礼です。それも、支那の古典のやうに、決して實現する氣持ちもない理想論を語るのではなく、實践の行として。
二 無理のないこと

 時に仁と申事(もうすこと)は、畢竟(ひつきよう)トント無理のないこと申す事でござります。此の無理のないのが、即ち人の心ぢやと、孟子は仰(あふ)せられました。

 此(この)無理のない心をもつて、親につかへますると、孝行になり、主につかへますると、忠になり、夫婦、兄弟、朋友の間にも、又々此通りで、五倫の道はやすらかに調ひます。

 其(その)無理のない仕樣は、親は親のあるべきやう、子は子のあるべきやう、夫はつとめのあるべきやう、女房は女房のあるべきやう、此あるべきやうが、無理のないところで、即ち仁なり。又人の心でございます。

 たとへて申さば、此扇(あふぎ)は誰が見ても扇じや。扇としつて、これで鼻汁(はな)をかむ人も尻をぬぐふ人もない。これは是、扇のあるべきやう、禮儀に御もちゐなされるか、開いて風をもとめる歟(か)、この外(ほか)に仕樣はない。此見臺(けんだい)のあるべき樣に御つかひなさる。しかれば親御さまを親御さまと御らうじたらば、御孝行になされるが、子たるものゝ有るべきやう。是が仁なり、人の心でござります。

 かやうに申してゐると、餘所(よそ)のはなしのやうなれども、即ち御銘々(ごめいめい)樣の御心が、トント無理のない仁丸無垢、いまあなた方の御心の店(たな)おろしをいたして居まするのぢや。よそ事のやうに御聞きなされては、迷惑にぞんじます。 (つづく)

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このページは、宝徳 健が2015年10月10日 08:53に書いたブログ記事です。

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