大和言葉 10(皇紀弐千六百七十五年十月二十四日 參)

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 學習とは、まずは「學ぶ」ことです。學ぶの語源は「なめぶ」です。つまり、眞似をすること。習は、繰り返し行うことです。學ぶだけではなく、學んだことを繰り返し使ふ必要があります。これまでみてきた大和言葉を振り返りませう。

力を盡す
力を添へあふ
気合ふ
あらまし
相合(あいあひ)
徒や疎かに
幾久しく
恐れ入ります
參りました
そぞろ歩き
道すがら
たおやか
お手すきなときに

 書き並べるだけでもきれいですね。それと、お氣づきになりませんか?現代假名遣ひでは、うまくあらはせないのが、大和言葉です。私たちは間違つた日本語を使つてゐます。それを世の中の進化とか、世の中の変遷といふ人たちがゐます。決して懐古主義ではありません。眞理であり、我が日本人の心理です。
 今日は、「心待ち」です。

 ハガキ道を再開しました。手紙を書く時にこの大和言葉を用ひると、心がとても隱やかになります。受け取つていただく人の事を考へながら書くやうになります。

 「幾久しく」なんて、手紙には本當に使ひやすい。すぐに使ふ。學習です。

 「心待ち」もよいですね~。どうしても返事が欲しい時に「お返事ください」「お返事をお待ちしてゐます」よりも、「お返事を心待ちにしております」のはうが、素敵ですね。

 我が日本語は美しい。我が國は美しい。世界で唯一神話の時代から續いてきた奇跡の國です。
 
 そうだ、蛇足で。神ではなく、神です。「示」は神を意味します。だから「神」では意味が通じなくなります。祭の上部は肉と穀物です。それを「示」で神の前に置くので、祭となります。

 でも、最近のパソコンは、神に變換できないものがあります。

 我が日本語は、「言の葉(ことのは)」「言霊(ことだま)」です。精神に響くのが我が日本語です。無知が故にそれを失ふ行爲が横行することを悲しく思ひます。

 またかつての我が國にしませう。さういふ日が來るのを心待ちにしてゐます。

心もて ことに及んで 言の葉に なすが我らの 言霊の神

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このページは、宝徳 健が2015年10月24日 06:23に書いたブログ記事です。

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