神武天皇崩御二千六百年(皇紀弐千六百七十五年十一月三日 明治節 參)

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 今日は、一日中 明治節の歌をPCでかけながら仕事に邁進します。

 神武天皇=カムヤマトイハレビコノミコト(これは日本人なら覺へませうね)が瀬戸内海で過ごしたところまでしたね。私の著作「どの本よりわかりやすい古事記」からの抜粋です。

 さらに東を目指します。その時、ある釣り人が手を振つて近づいてきます。そろそろ關西に入るので關西弁で。


ジ「お前、どこのやっちゃねん?」
釣り人「土地のもんじゃ」
ジ「ほんなら、船で行きたいよって、塩の路おしえたらんかい」
釣り人「ええけど、どこ行くねん?」
ジ「わかるはず、ないやろうが、行ったことないんやさかい。お前行ったことあるんかい?」
釣り人「あるにきまっとろうが」
ジ「ほな、教えんかい」(あの~こんな品のない關西弁ではないと思います。神武天皇は)
 
 すると陸地が見えてきます。
ジ「それにしても浪()の速い海やのう。そや、浪速ってつけたろう」(これで、大阪が浪速になりました)。

 そうこうしてゐるうちに、大きな河(淀川)の河口にある白い三角州()を見つけました。白い肩がなまって、今の枚方になっています。

 さてさて、かうやつて、神武天皇は、九州から瀬戸内地方を從へて行きます。しかし、ここで思はぬ抵抗を受けます。さすが關西人!中央の言うこと聞かない。

さて、この白肩(がなまって、今は枚方。この後は、枚方と呼びます)に豪族のトミノナガスネビコが住んでいました(以下ナガスネビコ)。彼からは、必死に應戰します。その應戰時に神武の兄イツセノミコトが的に弓矢にあたつて死んでしまいます。

イツセノミコトは、「われわれは、日の神の子孫なのに、太陽に向かつて戰つたから負けたんだ。弟よ、體勢を立て直して、太陽を瀬に戰ふんだ」と言つて「こんな賎しいものの矢で死ぬのか」と嘆きながら亡くなりました。

 神武天皇は體制を立て直すために和歌山県の熊野に逃れます。一族は戰ひに敗れたこともあり、ぐったりとしています。神武天皇(以下、ジ)は、「とてもこのまでは戰へない」と考へます。

 すると、熊野の高倉下(たかくらじ、以下、タカ)という者が現れて、一振りの太刀を手に、神武天皇の前に跪きました。


タカ「天つ神の御子、いざ目覺めたまへ」
ジ「ああ、なんと長く眠つてゐたことか」
と言つて、その太刀を受け取りました。

 その太刀は今まで見たこともないようなすばらしい太刀で、邪氣まで祓ってしまひます。その太刀で、一族のみんなは邪気が祓われ、元氣が出ました。


ジ「その霊剣をどこで手に入れたのですか?」
タカ「実は、皆さんが苦戰してゐるのを知つた天照大神様は、タケミカヅチノオオキミ(国譲りで、大国主命を征服した神)に、もう一度助力に行くやうに申し付けられました。しかし、タケミカヅチノオオキミは、この剣さえあれば大丈夫と、私にこの剣をあなた樣に渡すやう託されたのです。」

 そして、そのとき、天から神武天皇に対して「邪氣があるところを進んではならん。ヤタガラスに案内をさせるので、ついていくが良い」との声があります。 つづく

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このページは、宝徳 健が2015年11月 3日 04:09に書いたブログ記事です。

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