KTMさんから敎へていただきました。今、橿原神宮は、御本殿特別參拝ができます。橿原神宮の御本殿は、安政二年に建造された京都御所の元内侍所で、明治二十三年にこの橿原神宮に移築されました。それが観られるんですよ!!!! 行かなきゃ。今月一杯です。明治二十三年は十月三十日に敎育勅語が發布された年です。我が國の精神文化が再確認された年です。
この御本殿は今囘初公開となります。通常は神職か選ばれた人しか中に入ることができません。とくべつな空間ですね~。
さて、どこまででしたつけ? 私の著作、「どの本よりわかりやす古事記」から、神武天皇にかかはるところを抜粋してゐます。
神武天皇はヤタガラスを道案内に、そして、霊劍を携へて豪族の征服に向かひました。
ですから、神武天皇の繪には、鳥の繪と劍の繪が必ず載つてゐます。
今囘で、この記事はをはりますが、古事記には神代と人代があります。この神武天皇までが神代です。
大きな鳥、ヤタガラスの案内で、神武天皇は一族を引き連れて熊野の山の中を進みました。途中に大きな河が流れてゐました。国つ神に、河の名前をたずねると「吉野川」と答えました。途中、いろいろな国つ神に出會ひ、奈良県宇陀郡にやつてきました。
ここにはエウカシとオトウカシという兄弟が住んでいました。なかなかの勢力です。神武天皇は、ヤタガラスを派遣して、樣子をうかがわせました。ヤタガラス「天つ神がいらっしゃった。汝らは仕える氣があるか」
そんな氣はないエウカシはヤタガラスに向かつて、矢を放ちます。ヤタガラスは歸つて神武天皇に報告します。「あまり歓迎してゐる樣子はありません」
その頃、エウカシは神武天皇を迎へ撃つために兵を集めてゐました。でも、あまり人数が集まりません。そこで、服従するやうに見せかけ、おびきよせて神武天皇をやつつける作戰に切り替へます。宮殿を設けて、そこに仕掛けをして、踏むとバネがはじけて板にうたれて壓死するものです。
しかし、しかし、なんと、弟のオトウカシが裏切つたのです。神武天皇のところに来て、作戦を全部ばらしてしまひました。そこで、神武天皇は部下を派遣して、逆にエウカシを自分のつくつたわなに追い込んで押しつぶしてしまひました。だから、このあたりを今の奈良県宇陀郡の血原といひます。
そこを征服し、次に進んでいくと、野蛮人の八十建(やそたける)が住んでいる土地に來ました。これは、ことごとく切り殺してしまひました。
さうやつて、大和地方を平定した神武天皇は、今の奈良県にある橿原神宮で政務をとるようになつたのです。日本最初の皇居です。
神武天皇が后を迎えます。
神武天皇は、日向に住んでゐたとき、すでの妻と子がいましたが、大和に移ったので、新しい素晴らしい后を迎えることになりました。
部下の一人が言いました。「この大和地方には、神の御子と傳へられる乙女がいます。どうして神の御子というかをご説明しましょう」「昔、この近辺に、セヤダタタラヒメという娘がいました。ものすごく美人でした。三輪山にいます大物主命が、これは美しいと思ひ、自分の姿を矢に變へて、セヤダタタラヒメがトイレにいって用を足しているとき、ヒメの女陰めがけてその矢を突き上げたのです(なんのことはないトイレで強姦)。ヒメがビックリしてそのまま家に歸へりましたら、その矢が素晴らしい若者に変身して、契り、子供が生まれました。ホトタタライススキヒメという名前です。ホト(女陰)とはあまりにも露骨過ぎるの で。ヒメタタライスケヨリヒメと呼ぶようになりました。三輪山の神様の落としだねですから、神の御子です」
そこで、神武天皇はその娘を見に行き、いくつか歌を交はしたあとで、結婚なさいました。宮殿に行く前に夜をともにし、その後、宮殿に入りました。その時の和歌が
葦原(あしはら)の しけしき小屋(おや)に 菅畳(すがたたみ) いや清敷(さやし)きて 我が二人寝し(芦原の粗末な小屋に、菅で編んだ敷物をすがすがしく敷いて、二人で寝ましたね)
こうして穏やかにお過ごしになつてゐるうちにお生まれになられた御子のひとりが綏靖(すいぜい)天皇です。 この記事をはり
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