心學 十弐(皇紀弐千六百七十五年十一月廿參日 弐)

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 つづきです。少しあいてしまつてすみません。
四 京の蛙と大阪の蛙

うき中の ならひとしらば かくばかり 花のゆふべの ちぎりなるとも

 此(この)唱歌で御考へなされて御らうじませ。是(これ)はこれ、若い男(をとこ)と女(をんな)と、親のゆるさぬ縁むすび、面白からうと思ひのほか、おもふやうにならぬ。ういつらひ世の中じやとしつたら、かうはせまいものと、後悔(こうくわい)した文句でござります。こんなことは世間にはまゝあることゝ嫁を貰(もら)うたら面白からうの、世帯を持つたらうれしからうのと、鍋尻こがさぬ畑水練のムチヤクチヤじあん。思ひの外(ほか)に、所帯を持つて見ると、面白うもなんともない。唯今日に追ひ廻され、髪もかたちもかまはばこそ、まき髪に前垂帯、ふところへ子をねぢこんで、みそこしさげて歩いて見たがよい。どのやうなものであらうぞ。是みな親の敎訓をきかず、時節到來をまたずして、はやまつて俄(にはか)所帯。これは誰がしつた事じや。皆おのれおのれがいたづらから。

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このページは、宝徳 健が2015年11月23日 03:40に書いたブログ記事です。

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