大和言葉 參十五(皇紀弐千六百七十五年十二月十二日 弐)

| コメント(0) | トラックバック(0)
 これは、大和言葉に入るのかどうか自信がありませんが・・・。でも、大和言葉を使ふのは「乙なもの」ですね。なんて使ふと良いのでは。あれっ? では、どうして「甲なもの」ではなく「乙なもの」になつたのでせうか?

 調べてみると定説は、ないやうです。といふか、これに関しては、バトルのやうな激論が交はされてゐます(笑)。そんなに力まなくても・・・。
 我が日本語は、数百万語がある上に、使い方に厳格な取り決めがありません。それが素晴らしいのです。そのファジーな言語を使ひきる我が民族のこの優秀性には驚嘆します。それを簡素化して、嚴格なルールを定め、日本語を消滅させようとしたのが、現代假名遣ひと當用感じです。文部官僚と一部の學者の國家破壊行爲です。

 私は別に英語を否定してゐる譯ではありません。この言霊が幸はふ美しい日本語をきちんと學習したら、我が日本人は、非常に豐な人間性を備へて他國の言葉や他の學問を習得できることを申し上げてゐます。

 だから、小學校から英語敎育など、人間性破壊そのものだと申し上げてゐます。彼の民族たちの残虐性を見る限り、されが事實であることは明らかです。

 さて「乙」いいですね~。甲ではないけれど、それに向かった成長性が感じられます。甲ではないけれども、ユニーク性が感じられます。この言葉の使ひ方こそ「乙ですね」。

 乙女・・・。いいですね~。これからますます良い女になるといふ意味でせうか(笑)。

 乙姫・・・。なんとなく世の男性のあこがれです。

 いいんです。明確な意味などなくても、自然に育まれ、そして、抱かれて、自由度の髙い我が日本語を使ふとき、かうやつて想像してみるもの樂しいですね。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/6161

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2015年12月12日 07:09に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「ストックバックとクリアケース(皇紀弐千六百七十五年十二月十二日)」です。

次のブログ記事は「これまでの大和言葉」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。