フランス革命と保守(皇紀弐千六百七十六年二月八日)

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 昨日は、北方領土の日でしたね。領土が奪はれるのはつらいものです。でも、軍事をきちんと整備しない我が國では、奪はれた領土を取り戻すことは至難の業です。さういふことも臣民として知つておく必要があります。

 さて、フランス革命を振り返つていきませう。あの人類史上、愚かランキング上位のフランス革命を、私たちは、學校で何か素晴らしいものとして習ひました。我が國の敎育が、左翼敎育であることの證明です。

 フランス革命は、經濟的行き詰まりからおきました。
 經濟とは、國家運営の中で最優先事項です。國が富まなければ臣民の精神が疲弊します。軍事が整備できません。社會福祉も、インフラも。

 フランスは七年戰爭で、カナダ、西インド諸島などの植民地を失いました。そのため1760年代後半から、フランスの經濟は収縮期に入り、英拂通商条約を締結した1786年以後は、イギリスから安価な工業製品が流れ込んで、不況を迎へました。

 この經濟状況を打破するために、1787年財務総監カロンヌ伯爵は、財政改革案を作成する一方、司教、大領主など、有力者からなる名士會を招集するやう、ルイ十六世に上申しました。

 でも、この財政改革案は、貴族から税を徴収する内容でした。當然反對が起きます。反對どころか、貴族の叛亂まで起きます。

 1788年、凶作が不況に追い打ちをかけます。國家財政は、眞赤になります。

 財政改革に對して、貴族、ブルジュワ、僧族が入り乱れて収集がつかなくなります。困つたルイ十六世は、國民會議を設けることを決め、以後は、ブルジョワ代表議員が主導となつてきます。

 この混乱が、有名なバスティーユ牢獄襲撃事件につながつて行くのです。   つづく

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このページは、宝徳 健が2016年2月 8日 06:55に書いたブログ記事です。

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