治天の君 參(皇紀弐千六百七十六年三月二十六日 弐)

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 正平の一統(しょうへいのいっとう)といふ事件があります。1351年 室町時代です。
 幕府内の權力闘筝で足利尊氏と直義兄弟は袂を分かちますが、1350年高師直が殺害されたことで和解します。しかし、翌年になると再び對立が生じます。


 尊氏は直義勢力を駆逐するため敵対していた南朝に和睦を申し入れました。その結果北朝の崇光天皇と皇太子直仁親王が廃され、北朝の元号であった「觀應」にかわり南朝の元号「正平」が使用されることになりました。

 南北朝は一時的に合一されますが、翌年に直義が急死すると尊氏は合一を破棄し南朝勢力を京から追い出し、後光厳天皇を即位させ北朝を再建しました。

  このときも、治天の君の言葉が出てきます。1352年に直義が死に、南北朝が再び分裂した後、北朝側の治天・天皇・皇太子を南朝は拉致します。建前であつても政治決定には治天の裁可を必要としてゐたため、幕府及び北朝側は困つてしまひます。しかたがなく、出家していた彌仁王を後光嚴天皇とし、京都に残る天皇家で最高位だつた廣義門院を治天の君とし、治天の權能を行使することで對應しました(天皇指名は治天の君しかできない)。ところが、この廣義門院は女性でしかも皇室の出自ではなかつたのです。天皇家數千年の歴史の中でこのときだけ、このやうなことが行はれました。それほど治天の君は皇室にとつて大切な存在なのです。 つづく


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このページは、宝徳 健が2016年3月26日 08:16に書いたブログ記事です。

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