文藝春秋が司馬遼太郎のなんとかといふ本を出しました。まあ、私もかつては司馬遼太郎に騙されてゐましたから、偉さうに云へませんが、司馬遼太郎、山崎豊子、半藤一利、城山三郎、吉村昭あたりは、今讀むと背筋が寒くなります。阿川弘之の米内光正も。なんだか米内光正が偉く見えてきます(笑)。
松本清張は共産主義者ですから論外ですが。
手塚治虫もさうですね。ロボット漫画はいいのですが、あの歴史觀はいただけません。
その手塚治虫の漫画に「ブッダ」があります。これは可もなく不可もなくかな~(笑)。
松本清張は共産主義者ですから論外ですが。
手塚治虫もさうですね。ロボット漫画はいいのですが、あの歴史觀はいただけません。
その手塚治虫の漫画に「ブッダ」があります。これは可もなく不可もなくかな~(笑)。
よく佛像と云ふ言葉を使ひますが、正確には佛像とは、如来をさします。
まあいいや。佛敎の言葉に四諦八正道(したいはっしょうどう)といふ言葉があります。
今囘は、四諦を説明しませう(何囘かにわけて)。その次に八正道を解説します。
苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)の四つを四諦と云ひます。句集滅道(くしゅうめつどう)ですね。
諦(たい)とは、悟りのことです。
今日は「苦諦」です。
苦諦とは、苦諦とは、人生は苦であるという真理です。四苦とか八苦にわかれます。よく「四苦八苦する」というのはここが語源です。
かういふ苦しみをきちんと受け止める。苦しみがあることを「あきらかにする」=「諦かにする」。「ああ、そうなんだと思ふから苦しいことを受け止めることができます。見極めると云ふ意味でもあります。つまびらかにするとも。
だから、困難な出來事があつたときに、すぐに斷念するのではなく、その本質を「明らかに見極めて」から判断することが本來の意味の「諦める」なんですね~。
まあいいや。佛敎の言葉に四諦八正道(したいはっしょうどう)といふ言葉があります。
今囘は、四諦を説明しませう(何囘かにわけて)。その次に八正道を解説します。
苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)の四つを四諦と云ひます。句集滅道(くしゅうめつどう)ですね。
諦(たい)とは、悟りのことです。
今日は「苦諦」です。
苦諦とは、苦諦とは、人生は苦であるという真理です。四苦とか八苦にわかれます。よく「四苦八苦する」というのはここが語源です。
四苦とは、生老病死です。
・生...生まれる苦しみ
・老...老いる苦しみ
・病...病む苦しみ
・死...死ぬ苦しみ
八苦とは、愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五蘊盛苦(ごおんじょうく)この4つに生老病死を合わせた8つの苦しみです。
・愛別離苦...愛する人と別れなければならない苦しみ
・怨憎会苦...嫌な相手と合わなければならない苦しみ
・求不得苦...ほしいモノが得られない苦しみ
・五蘊盛苦...肉体と精神が生み出す苦しみ
かういふ苦しみをきちんと受け止める。苦しみがあることを「あきらかにする」=「諦かにする」。「ああ、そうなんだと思ふから苦しいことを受け止めることができます。見極めると云ふ意味でもあります。つまびらかにするとも。
だから、困難な出來事があつたときに、すぐに斷念するのではなく、その本質を「明らかに見極めて」から判断することが本來の意味の「諦める」なんですね~。
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