奠都の詔(皇紀弍千六百七十六年四月十三日 弍)

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 先日行つた、神武天皇二千六百年大祭では記念品をたくさんいただきました。その一つに「奠都(てんと)の詔(みことのり)の盾がありました。

 神武天皇が、橿原宮で即位建國する古典の中で、日本書紀・巻第三「神武天皇御紀(おんき)」に記されてゐる建國の理念です。つまり、我が國の理念です。ぜひ、お讀みください。
奠都の詔

われ東野方へ向ひ、わるものどもを討たうと、日向の高千穂宮をでかけてから、恰度(ちやうど)六年になつた。祖先の神々樣の御助けを受けて、賊共を打ち平らげたけれども、少し離れた國々には、まだわるいものが居て安心が出來ないが、まんなかの大和地方は先ずゝ静かになつたでこれから都を定め、宮を造りたいが、世の中が未だ開けず、民の心はすなほで、恰度巣に住み穴に住んでゐるやうな風であるから、さほど立派な宮でなくてもよい。

 元來、天皇が政をとり行ふにも、必ず其の時と、其の世のありさまに合わせてすべきである。それで、なんでも大御寳(おほみたから:臣民)のために、第一幸福になる事であつたなら、すべて天皇たる務にかはなぬ事はあるまい。

 とにかく、山林を開き、宮を造つて、謹んで天照大御神の御授けになつた天津日嗣(あまつひつぎ)の位に即(つ)いて、我が寳である臣民をよく治め、さうして天照大御神が、この天下(あましt)を御授け遊ばされた思召に叶うやうに、又天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が正しい道によつて國を御治になつた御心をうけ告繼いで、だんだん大きく弘めたいものである。それで、人類の住んでゐる処は、何処でも己が都のつもりで、少しでも別け隔てのない氣持ちでゐたなら、國といふ國はどこの國でも、皆自分が治めてゐる家の内と同じ事であらう。あの畝傍山の東南、橿原の地は、まあ國のまんなかで、あるであらふか、ここに都をつくらう。

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このページは、宝徳 健が2016年4月13日 10:15に書いたブログ記事です。

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