滅相(皇紀弍千六百七十六年五月一日)

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 普段、何げなく使つてゐることばで、實は、それが佛敎用語であるものを紹介してゐます。

 今日は「滅相(めつそう)」です。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたる例なし。」 鴨長明の『方丈記』冒頭の有名な一文です。
 生じたものは必ず變化し滅び去ります。しかしながた自己中心的に生き、果てない慾望に支配されてゐる人間は、今あるものが滅び去ることは辛く悲しく、たうてい認められません。

 でも、この世にあるものは、一つの例外もなく、因と縁とが和合して生まれたものであり、条件(因縁)が變はれば、このままであつて慾しいと思つても必ず變化します。

 佛敎では、このやうに變化するものを「有爲法(ういはう)」と云ひます。そして、常に變化しつづけることを「諸行無常」と云ひます。平家物語の前文のところを髙校時代に暗唱したのを覺へてゐます。

 有爲法には、四相があります。

生相(しようそう):生じる
住相(じゆうそう):存続する
異そう(いそう):變化する
滅相(めつそう):消える姿
 
 人間の一生も生・住・異・滅の四相を示します。人身を得て誕生し、壮健な時期もあるが、やがては老い病み、ついには死んで行かねばなりません。

生 まれては 死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も 猫も杓子も

 一休さんの和歌です。

 先々のことは分からないが、分かつていることはただ一つです。誰もが必ず死ぬということです。人間もまた「滅相」を避けることはできませんが、生き続けたいと願う人間には、「滅相」は〈有ってはならぬこと〉〈思 いもよらぬこと〉である。

 このようにして「滅相」の意味が轉化し、今ではお禮を言はれた時などに、〈とんでもありません〉〈どういたしまして〉という氣持 ちを傳じへるのに「滅相もない」と言つてゐますね。。

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このページは、宝徳 健が2016年5月 1日 16:20に書いたブログ記事です。

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