一大事(皇紀弐千六百七十六年五月三十一日)

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 普段何氣なく使つてゐる言葉が、實は佛敎用語だつたといふものを紹介してゐます。今日は「一大事」です。
 一大事は、法華經に初めて出て來る言葉です。法華經は、釈尊が歳を重ねてからの敎へです。なので、一番新しく、そして、一番熟練している敎へであると法華經の人たちは云ひます。

 一大事とは、釈尊がこの世に出現した最大の目的のことを云ひます。その目的とは、すべての人々を苦しみから解き放つために、世の中の迷いを説き明石、煩惱を取り除いて悟りに導くことです。

 まあ、考へてみると、釈尊がこの世に現はれたこと以上の「一大事」ないのかも。

 しかし、蓮如上人は「後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり」(『白骨の御文』)と語つてゐます。 この「後生の一大事」は、結果的には、「浄土に人生の最終的な結論がある」ではないでせうか。つまり、この世に人生の結論はないということ 。あくまで、過程(プロセス)であつて結論ではない。人生の様々な出来事・事件があっても、それを結論としない。この命が終わるときに人生の最終結論は出るのだと受けとめれば、一つひとつの出來事にあくせくせずに生きることができさうですね。

一大事と 思ふ心にを 解き放ち 後生における 一大事知る

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このページは、宝徳 健が2016年5月31日 01:36に書いたブログ記事です。

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