満足と幸せ(皇紀弐千六百七十六年五月三十一日 六)

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 いいね~、速く寝て未明に起きて仕事して・・・。私に一番合つてゐるパターンです。酒飲まないとできますね(笑)(=^・・^=)

 我が國は、宗敎がなくても道德が保てた世界で唯一の奇跡の國です。それは、階層型支配形態の社會ではなく、共同體使命型社會で、一致團結、互譲互助の社會をみんなで築いてきたからです。言い換えるとそれは(自己)満足ではなく、幸(さきは)ひを求めてきたからです。實は、かつての出光興産の理念とはここにあつたのです。獨立してから初めてそれに氣づきました。
 満足とは何か。それは、普通の時分です。何事も起きず、自分がやりたいことが実現していればそれでいいといふのが満足です。これを爲政者が國民にやるのが愚民化政策です。ローマ時代のパンとサーカスですね。

 コンプライアンスと云ふ發想もさうです。今更、法律を守らなければならないなど、云ふ必要なないことは誰の目にも明らかです。それをあえて云ふことで、「法律を守つてゐれば後は何もしなくてもいい」といふ官僚がしかけた愚民化政策を金科玉条のやうにしてゐるのが今の日本です。

 つまり、満足とは、そんなもの。官僚の

設計主義

で平氣で満たされてしまひます(恐ろしい設計主義については、4月21日の私のブログをご覧ください)。満足とはあくまでも自己のものでしかありません。

 では、幸せとは何か。我が國は、言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ國でした。美しい言葉を使ひ合ふので、みんなが自然と幸せになりました。

 そうです。幸せとは、「さきはふ(幸ふ:つまりお互いが喜びをシェアする)」ことです。1人では實現できないのです。

 かつての我が國臣民は、属する共同體の中で、自分の期待役割(ミッション)をコツコツコウコツと果たしていく本來の個性を大切にし(通常使っている個性と本来の個性は意味が眞逆)ました。それは、お互いが幸うためです。自分一人が幸せになるためではありません。

 では、それば歿個性だったのか。そんなことは決してなく、むしろ、今の世の中よりも個性(今風に言ふ)豐な社會でした。(このブログの憲法十七条をお讀みください)。

 さあ、我が國覺醒の時がやつてきました。

 八千年の我が國の歴史の中で、今が一番退化した時代です。臣民が一番堕落してゐる時代です。それを時代が發展してゐると勘違ひしてゐる臣民の何と多いことか。

 でも、十五年前に比べ、ずいぶんとまともになつてきました。かういふ議論が出來るやうになつてきました。

 かつての美しい我が圀(心根が)。取り戻さないと、先の大戰で、我が國を守るために命を捧げてくれた英霊たちに申し訳が立ちません。

 満足ではなく、幸せを追求しましょう。

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このページは、宝徳 健が2016年5月31日 08:57に書いたブログ記事です。

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