退屈(皇紀弐千六百七十六年六月十弐日)

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 普段、何氣なく使つてゐる言葉が、實は、佛敎用語だつたといふものを紹介してゐます。

 今日は「退屈」です。
 佛敎では、修行の嚴しさに敗け、歩み續ける氣力を失くすことを「退屈」と云ひます。佛道修行に退き屈することですね。やることがなくて暇なことではありません。果たし遂げる課題が重要でしかも大きいために着かれてしまふのです。一般に嫌氣がさすことを意味する退屈とは、これが轉じたものです。

 蓮如は、「佛法のことをいふに、世間のことにとりなすひとのみなり。それを退屈せずして、また、佛法のことにとりなせ」と言つてゐます。佛法を傳へたいのなら ば、相手がなかなか理解してくれないからといつて、投げ出すわけにはいきません。傳はるならば頑張る、傳はらないなら諦めるというのでは、自分の思い通りの 結果を求めているだけであって、仏法が大事ではないのだ。

 とは言ひながらも、すぐに投げ出してしまいたくなるのも人間です。そんな私たちに対し、退屈を乘り越へてゐくには、師や友が大切であると佛教は教へます。自分を育て導いてくれた人の生き樣、惱みを抱へながらも頑張つて生きてゐる友だちの姿、それが自分自身の歩みの方向を確かめさせ、生きる力を與へてく れるます。

 生きて宇ゐると本當にいろいろなことで惱みます。方向性を見失ひ、氣がくじけさうになります。そんnときは、師や友のことを憶ふと、「あ~、自分だけが惱み苦しんでいるぢやあ、ないんだなあ」と知ることができます。それがきつと退屈しない人生なのでせうね。

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このページは、宝徳 健が2016年6月12日 07:58に書いたブログ記事です。

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