2016年7月アーカイブ

 第七条の譯ですね。
 最近、NHKの朝ドラが人氣を博してゐます。でも、戰爭のシーンとなると毎囘お決まりです。戦争をやりたくないのは誰でも一緒です。あの世界指折りの殘酷場所(國家ではない)、支那でさへ、孫子が「兵は詭道なり(戰爭はなるべくやるな。騙し合ひだ)」と云つてゐます。戰爭をやると國力が著しく低下します。

 でも、やらなければならない時もあります。それが日清、日露でした。元寇でした。元寇のときに、「ああ、元さん、どうぞどうぞ」と云へばよかつたのですか?稀代の政治家、北条時宗がいなかつたら、どうなつてゐたか・・・。

 戰爭は勝たなくてはなりません。勝つ見込みがないときは絶對にやつてはならない。今、戰中派がよく「戰爭の記憶」と云ひます。そして、朝ドラをはじめとしたメディアでそれを臣民に刷り込みます。戰爭の記憶ではありません。敗戰の記憶です。

 まあ、占領軍のウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムに乘せられた戰中派は、我が國の歴史をガタガタにします。あの素晴らしかつた江戸時代もぼろくそに云ひます。昔の歴史はみんな惡だつたさうです(笑)。
 今日は、明治天皇崩御104年です。偉大なる大帝を偲びます。

 明治の政治家は、みんな元武士でした。だから喧嘩の仕方がうまい。

 正義は、いつも喧嘩の強い奴に敗けてゐます。昔の我が國は、正義&喧嘩が強い稀有な國でした。でも、敗戰後、妙にいい子ちゃんになつてしまひました。

 どんなに正義を語つても、喧嘩が弱ければ何にもなりません。良い人だけど弱い人になり、他人は、云ふ事を聞きません。德川慶喜などが代表例です。あんなにクレバーな人が、喧嘩の仕方を知らないので、不遇な人生を送りました。

 逆に、惡人で喧嘩が強い人間が勝利者になつた例のはうが、世界史には多い。レーニン、スターリン、毛沢東、チャーチル・・・・・。彼らがどれだけひどい影響を世界に與へたか。
 あの倉山満をして「この本を讀まずして保守を語るな」と言はしめる本「フランス大革命に抗して シャトーブリアンとロマン主義 伊東冬美著」を解説してゐます。今でも、多くのフランス人が、あの革命を心から悔やんでゐます。なのに、我が國は、「國民主權」といふ愚かな概念を賛辞します。

 ヴァレンヌ事件といふ、ルイ十六世一家が逃亡途中で民衆につかまつた事件が起き、革命に失望したシャトーブリアンは、逃避先のアメリカから母國フランスに歸國します。
 さて、今まで出てきた女性を整理しませう。第一帖が桐壺です。光源氏のお母さんです。宮中で他の女御にいじめられて若死にをしました。そのお母さんにそっくりの藤壺も名前は出てきましたが、まだ、物語にはなつてゐません。光源氏の正妻の、葵の君。帚木も出てきました。そして、空蟬。今は、夕顔です。

 さて、この夕顔の章に、キーパーソンが出てきます。六条御息所(ろくじょうのみうやすどこ)です。この名前も覺へてください。
 普段、何氣なく使つてゐる言葉が實は、佛敎用語だつたなんてのを紹介してゐます。今日は、最終囘です。「絶對(絶対)」です。

 佛敎用語では、「ぜつだい」と讀み、そして、正しくは「絶待」と書きます。

 他との比較を絶した、ただ一つの他に並ぶものがないありさまのことを云ひます。

 私たちは、ほとんどが、互いをよりどころにする相対の中で生きてゐます。でも、人が苦しむのは、こ相対の中で、自分と何かを比較するところからきてしまひます。

 誰が正しいかではなく、何が正しいか・・・・、それが生きる修行なのでせうね。
 季節の素敵な言葉を時々紹介してゐます。今日は吊り忍(つりしのぶ)です。
 天神祭ですね~。浴衣を着た人たちがたくさん歩いてゐます。大阪に住みながらまだ行つたことがありません。なんか仕事が入るんですよね~。

 さて、今日から第七条です。

繰り返します。

 第一条が、我が國で最も大切な和です。弱い人間の集まりではありません。鍛え上げた己の力をお互ひに使ひあふとき、人間の(集團の)力は最大限となること を和と云ひます。一致團結です。互譲互助です。武士道の精神です。この力があるから、我が國は、宗教がなくとも道德を保てた世界で唯一の民族となりまし た。

 第二条が、大宇宙の原則を守れです。三寳を敬へとは、さういふことです。自分勝手な考え(誰が正しいか)ではなく、大宇宙の原理原則と和して生きていけ(何が正しいか)と云ふことです。我が國の別名である大和とは、「宇宙の原理原則として生きていく」といふ意味があります。

  第三条が、ミッションです。現代で云ふ「個性」は、本來の個性の意味とは違つてゐます。自分の好き勝手なことをやるのを個性と云ひません。その集團(家、 會社、地域社會、國家等)の中で、自分の役割(使命)を探し、そして、それをコツコツコツコツ果たしていくことを使命と云ひます。一隅を照らすです。

 第四条が、禮(礼)です。第一条の一致團結した力を持ち、第二条の大宇宙の法則を和して生きていく自然堂を軆につけ、第三条の本來の個性を発揮し、第五条の役人は私利私欲を排し、我が國國體である シラス の考へで仕事をしろ、そして、第六条の善と惡の區別をしつかりとする。

 どうでせうか。我が國は十七条憲法と敎育勅語があれば十分です。では、第七条本分を。
 フマフォが出たとき、電車の中でスマフォでゲームに興じる者たちを見て、「まるで昔のシンナー中毒患者だなあ」と思ひました。今回、ポケモンのゲームが出て、そのシンナー中毒患者が、夢遊病者になりましたね(笑)。いや、ゾンビと云ひ換えたはうがいいか。

 昨日タクシーに乘りました。タクシーが左折しようとして、横断歩道で通行中の人がいたので停止しました。5人家族です。母親も父親もスマフォのゲームに興じてゐます。ポケモンのあのゲームをやつてゐるかどうかは、すぐにわかりますね。動きがスピーディになつたり、緩慢になつたりするからです。信號が赤に變はりました。でも、まだ、横断歩道上で、ゲームに興じてゐます。かういふのを馬鹿と云ひます。あれでよく子供の敎育が出來るものです。

 前置きが長くなりました。源氏物語でちやうど、夕顔を書いてゐます。源氏物語の夕顔のことではありません。花の夕顔です。
 見舞いに來た乳母の隣の家に住む女性が氣になつてしかたがない光源氏です。

光「どういふ人が住んでいるんだい」
惟光「(またかいと思ひながら)病人の看病で忙しくて近所のことまで知りませんよ」
 この前の答えです。Aと7です。Aと2と答える人が多いですね。
 ポケモンなんとかといふ、スマフォ向けのゲームが配信されたそうです。いらんものを作るなよ。私もつひにスマフォユーザーになつてゐますが、歩きスマフォだけは、死んでもやりません。このゲームは、歩きスマフォをしろといふ、人類崩壊の序章ゲームです。あんなものをやつてはいけない。

 日曜日の22時から、山崎豊子の沈まぬ太陽がドラマ化されてものをやつてゐるのだとか。週刊誌を讀んで知りました。週刊誌では、山崎豊子および沈まぬ太陽を絶賛してゐました。とんでもない。あんな嘘といふか、あれほど人を馬鹿にした惡人美化の小説はありません。
 今日は、ちよつと、變はつた問題を。負けるが勝ちとは直接關係がないのですが、頭のトレーニングに。これわかりますか?
 ずいぶん、間があいてしまひました。

 ヴァレン事件で、ルイ十六世一家が、民衆に拉致されてしまひました。私たち日本人には信じられません。やはり、我が國皇室と臣民は一體なのですね。

 ヴァレン事件を知つた、シャトーブリアンは、急遽、帰國の途に着くことを決意します。
 梅雨が明けましたね~。青空が広が地ます。海や山や川や・・・、暑い中でも人の活動が活発になる頃です。

 水と天が一続きに見えることを「水天一碧(すいてんいっぺき)」または「水天一色(すいてんいっしき)」と云ひます。青海原の上に續く、雲一つない青空。島影もなく、船も浮かばず、水平線が見えるばかり。しかも快晴。もうそんな風景はあまり見られなくなりました。

 さういふ風景に出合うと「天空海闊(てんくうかいかつ)」な心持になるのでせう。

 天空海闊とは、度量が大きく、なんのわだかまりもない境地です。年に一度ぐらいは、そんな境地を味はいたいものです。
 普段何氣なく使つてゐる言葉が実は佛敎用語だつたなんてのを紹介してゐます。

 投機もさうなんです。
 さあ、第四帖 夕霧に入ります。以前、空蟬と同一人物とするといふうつかりミスをした女性です。この夕霧は、ミステリー小説みたいなんです。

 光源氏は、小さいころ世話になつた乳母(めのと)が病氣になつたと聞いて見舞ひに行きます。
 梅雨が明けましたね~。さあ、暑い夏を樂みませう。支那の五行思想では、春をつかさどる神は「木の神(青帝(せいてい)または蒼帝(そうてい))です。夏は火の神(赤帝(せきてい)または炎帝(えんてい))、秋は金の神(白帝(はくてい))、冬は水の神(黑帝(こくてい)または玄帝(げんてい))です。夏は炎帝と遊べばいいのですね。

 今は、七十二候 小暑 末候 鷹乃學習です。「たかすなはちわざをならふ」と讀みます。

 以前、大阪府中小企業診斷協會の要請で、資格を取り立ての若い診斷士さんたちに話す機會がありました。獨立支援セミナーといふ名前でした。壓倒的に多かったのが「どうやつたら仕事が取れるのですか」といふ質問でした。
 何年前だつたか、母の法要をやつたときのことです。我が家は淨土眞宗です。

 お經が終はり、和尚さんの説法が始まります。和尚さんの後ろには大きな額がありました。そこには「見眞大師」と書かれてありました。なんだらうと思ひ、「見眞大師」とはどなたのことですか?と尋ねました。あまり、質問などする人はゐないのでせう。和尚さんは、少しむっとした顔で答えました。「弘法大師」「傳敎大師」とあるやうに、朝廷から德の髙いお坊さんには大師の彌號が與へられるのです」。

 和尚さんは、しかえしに、隣に座つてゐた、私の息子(當時七歳ぐらい)に、「では、僕、淨土眞宗の佛樣は誰だい?」と質問しました。息子は「阿弥陀如來」と答へました。

 昨日、親しい方のお母樣のお通夜に參列しました。
 先ほどの記事は言葉足らずでしたね。満足と幸せの違いを解説します。

 満足とは、先ほど申し上げたやうに、自分の欲望とか自分の日常が満たされればよい状態です。

 では、幸せとは。
 繁體字で書きましたが、今の漢字では「選択」です。普段、何氣なく使つてゐる言葉が、實は、佛敎用語だつたの云ふものを紹介してゐます。

 みなさん、佛敎用語では、これは、「せんじゃく」「せんちゃく」と讀むんですよ~。

 あつ、それと、私は、人から、よく信心深いと云はれますが、決してさうではありません。それにこんな男が信心深い譯がありません。ただ單に、自分をまう一歩いや、まう、半歩進めやうともがいてゐる、人間にすぎません。いや、マイナスかな?

 繰り返し書きますが、三十歳の時、ある事件があつて、自己改造を自分自身に求めました。でも、苦しくて、できなくて、惱んで、何をしていいかわからなくて眠れない日が續きました。あるとき、すがるやうに坐禅に行きました。
 「何々をしてあげてゐる」といふ言葉をよく聞きます。これが發展すると「何々をしてあげたのに」となります。このことに相手が應へてくれないと「せつかくやつてあげたのに」となります。ポケモンのやうに進化すると「せつかくやつてあげたのに、あの人は何で・・・・」となります。

 これつて、自己満足ですよね??? 満足と幸せの違いを近い過去に書きました。満足とは、今の自分の日常が満たされる、いや、不快感を感じないレベルであれば自分が納得するものです。つまり、自己満足です。

 マネジメント現場でも上司が部下に「何度も言つたのに」と云ふ言葉をよく使ひます。これは、上司の自己満足表現です。部下の成長や部下の自己実現のための言葉ではありません。「俺の満足を、お前、満たせよ!」と叫んでゐる上司の言葉です。
 メディアも政治家もレベルが低すぎます。皇室典範を國會で議論するだとか、外國の王室は生前退位をしてゐるだとか、なんだかんだと些末な、枝葉論ばかりが議論されてゐます。

 本當に我が國は、だめになつたのかなあ。第一、皇室典範を憲法や國會の範囲内で、議論しやうとすると、必ず無理が出てきます。
 囚人のジレンマのあなたの答へは? 容疑者が二人とも相手のことを顧みずに自分の刑だけを輕くしやふとすると、逆に刑が重くなつてしまふという何とも皮肉なゲームです。
 我が家では、昔から、お盆は八月にやります。西日本はたいがいさうなのかなあ?

 關東では、七月ですね。昨日が迎え火です。まう、迎え火のやり方を知つてゐる人も少なくなったのでは? おがらはご存知ですか?
 明日の朝は、恐らくブログが書けません。今のうちに、日付も明日にして。

 皇室典範を、あんな國會議員共に議論させることなどできるのでせうか。皇室典範が憲法の範疇に入ってゐること自體がおかしいのです。違和感がありますよね。かういふ議論が巻き起こればいい。皇室典範は天皇家の家法です。臣民に觸はる權利などあるはずがありません。

 そして、天皇家には、憲法や皇室典範よりももつとすごいものがあります。祭祀の慣習法です。天皇家が數千年來續けてこられた、誰にも觸はることができない慣習です。天皇陛下は、正月三が日は寢ないさうです。悪い夢を見ると臣民が不幸になるからです。すさまじいまでの生き方ですね。竹内睦泰氏によると、この祭祀の慣習法が年齢により守れなくなったので、譲位するとのこと。なるほど。

 數千年にわたつた慣習法が、我が國を揺るがすパワーを持つてゐます。我が國の底力です。

 さあ、歴史を學びませう。日本人として生きるために。十七条憲法 第六条の譯です。前囘、譯のはうを書いてしまひました。すみません。本分は省略しますね。解説を。
 私は、若いころ、文學など興味はありませんでした。歳を重ねるにつれて、我が國のことに興味を持ち、いろいろ勉強していくと、どうしても、源氏物語のやうな古典を學びたくなりました。全部つながつてゐるのです。政治も經濟も文化も歴史も文學も武道もなにもかもが。ひとつを切り離して考へることなどできないのです。

 天子樣の私たちに對する最後のしつけを私たち臣民は自己都合を排除して眞劍に受け止める必要があります。我が國だけが、世界でなぜ續いたか。ものすごいパワーを天子様がくださろうとしてゐます。臣民として、さぼるわけにはいきません。

 さて、光源氏の若を小君が姉である空蟬に届けたところからでした。
 先日の問題はわかったでせうか?この感覺を身に着けると、人との折衝力が格段に向上します。
 普段、何氣なくつかつてゐる言葉が、實は佛敎用語だつたなんてのを紹介してゐます。今日は「流通」です。
 まだ正確な情報をつかめていませんが、天皇陛下が生前退位をされるとかされないとか。
 今回の參院選は、「自公vs民共」と云はれてゐましたが、さうではありません。「公明黨對共産黨」の戰ひだつたのです。そして、公明黨が、共産黨を叩き潰しました(笑)。

空蟬の 軆をかへてける 木(こ)のもとに なほ人がらの なつかしきかな

 「蟬が脱皮するやうに薄衣を殘していつたけど、あなたの人柄が懐かしく思はれてなりませんよ」。

 實は、空蟬とは、光源氏が詠んだこの和歌から源氏物語における彼女の名前となつたのです。

 では、これはどういふことか。
 職場においては、指示する者と指示される者にわかれます。指示する方(以下、上司)が指示される方に「號令」ないし「命令」ないし「訓令」をします(號令、命令、訓令については6月9日の記事をご覧ください)。訓令なならよいのですが、号令や命令レベルになると、上司は部下に「云ふことを聞かせやう」とします。つまり、部下に10勝0敗をしかけやうとする上司のなんと多いことか。上司と云ふ立場だけで、こんなことが出來たら苦勞しません。

 結果として、かういふ上司は0勝10敗か、部下と0勝0敗になります。いや、感情のしこりを考へると、マイナスの敗戰かもしれません。

 相手は、感情を持つた人間ですし、仕事には對等のルールがあります。

 相手との折衝は、ミニマックス、つまり、負けるが勝ちの鐡則を知る必要があります。

 今日は、ムカデゲームを紹介しませう。
 今日は、母の命日です。我が家は、私たち兄弟が子どもの頃、とても貧しい家でした。でも、ひもじいと感じたことはありませんでしたし、卑下したこともありませんでした。食卓は、母が工夫した料理がいっぱい。おやつは、市販のものなどありませんでした。生卵1個、トマト1個、パンの切れ端(昔はパン屋さんに行けば、ただでもらえていた)の揚げパン・・・、一番おいしかったのは、今の時期の夏ミカンジュースです。夏ミカンの皮をむいて、それをコップに入れて、潰します。砂糖と重曹を入れると、ものすごくおいしいジュースが出來上がります。
 普段何氣なく使つてゐる言葉が、實は、佛敎用語だつたなんてのを紹介してゐます。

 今日は「奉行」です。

 私は時代劇が大好きです。遠山の金さんなんか特に。

 それと、家で鍋や鐡板焼きなんかをやると、鍋奉行、鐡板奉行になります。佛敎用語ではどうなんでせうね~。
 大祓詞(おおはらえのことば)といふ祝詞があります。我が國の成り立ちと我が國における生き方を示したとても貴重な祝詞です。毎朝、暗証してゐます。

 我が國の國體を示す、「シラス」も登場します。

 一貫として書かれてゐるのが、相手を征服するのではなく、最悪でも平定だ。自然道に從つた生き方をせよ。そして、一人が犯した罪があるならそれをみんなで、清め洗ひ流して行かうと説いてゐます。

 人間は、生きてゐると、大小さまざまな罪を犯します。自分で氣づかうと氣づくまいと。そして、そのたびに、自分が知らない間に「氣が枯れて」行きます。
 今日は、七夕ですね~。晴れてゐるから天の川を觀ることが出來るかなあ。子供の頃、「天の川が觀たいな~」と思つても、七夕は雨になることが多く中々觀ることができませんでした。ばあちゃんが「それでいいの。七夕に晴れると疫病がはやるんだから」と云つてゐました。「へ~」と思つてゐましたが、ほんまかいな。

 そして、七夕は五節句の一つでもあります。

一月七日:人日(じんじつ)の節句 七草粥を食べますね。

三月三日:上巳(じょうし)の節句 3月の最初の「巳の日」という意味です。「禊ぎをして穢れを祓ひ、軆代りの人形に汚れをうつして河川・海などへ流す」風習などがあり、江戸時代以降「雛祭り」として庶民の間に定着しました。別名「桃の節句」は有名ですね。

五月五日:端午の節句 5月最初の「午の日」という意味です。古くは「藥草摘みの日」であり藥草としての菖蒲(しょうぶ)が「尚武」の音に通じるとして、男子の立軆出世を願ふ行事へ轉化していきました。

七月七日:七夕(しちせき)の節句 別命 笹の節句です。

九月九日:重陽(ちょうよう)の節句 「九」という数字は、易によれば「陽數の極」にあたり、これが重なる(非常にめでたい)という意味です。支那の風習(この日に菊の花を飾り、邪氣を祓つて長寿を禱るといふもの)が元になつていて、宮中では重要な節句として位置付けられてゐます。別名「菊の節句」です。

 さて、毎年書いてゐますので、今年も七夕傳説を。博多弁で。
 支那古代に「戰國策」といふ本があります。ドキュメントとでも云ふのでせうか。支那古典には、口先だけで實現など考へてゐないものが多いのです。論語など、その代表的なものでせ。では、價値がないかといふとさうではなく、もし、實現したらですごいものばかりです。支那ではそれは、無理でしたが、我が國 日本で、日本人がそれを實現しやうとし、そして、この素晴らしい國を創つてしまひました。支那人は、くやしくて仕方がありません。

 その古典の中でも、四書五經は、春秋と易經は素晴らしい。易經は、天地のなりはいを見事に説明してゐます。春秋は、ドキュメントなのでこれまた面白い。文藝春秋は、この「春秋」から名前をとつてゐますが、最近の文藝春秋は、名前を變へたはうがいい。

 さて、戰國策も、春秋と同じでドキュメントです。戰國時代に、人間が知恵の限りを盡して、生き残つた物語です。

 交渉は、自分の都合で自分の利益をマックスにしやうとした瞬間に、最少どころかマイナスの結果になることが多いのです。この自分の利益をマックスにしやうとする考へ方を垂直思考と云ひます。勝つのではなく、どうやつたら負けないかを考える、「ミニ・マックス」の考へ方(これを水平思考と云ひます)を身に着けることが大切です。

 戰國策は、まさにこの水平思考の物語ばかり。だから読んでゐて面白い。昨日の答えです。
 第三帖 空蟬です。空蟬の弟が、姉のところに光源氏を手引きするところからでした。
 今朝早くから明石に移動しました。阪神電車から山陽電車に乘り入れて、うつらうつらしていた私の目に、明石海峡の美しい風景が飛び込んできました。向夏の砌、酷暑にうんざりしてゐましたが、朝日を浴びた美しい明石海峡は息をのむ美しさです。

 季節の美しい言葉を紹介してゐます。今日は「濡れ色」です。
 普段、何氣なく使つてゐる言葉が實は、佛敎用語だったなんてのを紹介してゐます。

 今日は「相好」です。「そうごう」と讀みますが、最近、使はれなくなりましたね。良い日本語が使はれなくなるのは悲しいことです。

 「相好をくずす」と使ひます。顔をほころばせて心から笑ふことを云ひます。

 語源は佛敎の「三十二相八十種好(さんじゅうにそうhがちじゅうしゅこう)」です。
 なんで突然こんな記事を書き始めたんだろうと思つてゐる方々がたくさんゐると思ひます。

 人間は、一人では生きていけません。相手がありま。でも、その相手は、自分に都合のよい人ではありません。その中で生きていくと云ふ悲しい存在が人間なのです。では、その自分に都合が惡い人間とどのように接していつたらいいか。残念ながら自分の利益をマックスにする生き方は相手が存在する以上不可能なのです。この事實をしっかりと把握し、その中でも、自分の利益を確保する方法をみなさんと一緒に考えやうとしてゐます。

 マネジメントの世界でも、自分の云ふことを聞かせやうとして、相手に對して10勝0敗をしかける上司がたくさんゐます。結果として、0勝10敗(一時的には上司の権力で云ふことを聞かせたとしても)。そして云ひます。「あいつは人の云ふことを聞かない」「あいつはわかっていない」。まるで立ち位置がわかってゐません。

 垂直思考で物事を考えては、人を動かすことなんでできません。不都合、不合理、鬱陶しさ、不条理を乘りきることなんてできません。水平思考が大切なんです。この水平思考が、リーダーに不可欠な要素「アウフヘーベン」を創つていきます。

 では、前囘の答えを云ひますね。
 今日のブログはこれでおしまい。あ~、書きたいことがたくさんあるのに~。

 季節の素敵な言葉を紹介していま。今日は「短夜」です。「みじかよ」と讀みます。

 もう、夏至はとうに過ぎましたが、まだまだ、夜は短いですね。それにしてもまだ七月四日だといふのにこの暑さはなんでせう。でも、暑いとか寒いとか言つては天に文句を云ふやうなものだから駄目ですね。「天の氣まぐれ」なんだから。

 私は高校時代を博多で過ごしました。全國大會を目指してゐました。でも、私たちは、誰にも本格的にテニスを敎へてもらつたことがないのです。自己流でした。だから、練習時間はとても貴重でした。「東京よりはくさ、博多のほうが日没が一時間以上違うつちゃけん、俺らのはうが、有利ばい」といふ理屈にもならない根性だけの練習を續けました。
 第三帖 空蟬に入つてゐます。實際の源氏物語では、この女性に空蟬といふ名前がつくのは、もつと後なのですが、それはそれとして讀みやすさを優先します。

 光源氏が空蟬と一夜をともにしたところまででした。でも、それ以後、關係が進展しないことに光源氏はいらだちます。

 久々のブログですみません。東京はとても楽しいひと時でした。たくさんの出逢ひに感謝合掌。

 参議院に立候補している、たかぎさやといふ人が、大麻のことを言ってゐます。實は、これ大正解なのです。知つてゐますか?これは、GHQの神道を潰さうとした策略であつたことを。それを、メディアは、大麻が、あたかも極惡のやうに報じます。

 大麻はもともと立派な局方藥で、その素材は神事にも使はれてゐました。千葉縣や茨城縣を上総、下総と云ひますよね? あの地域では麻がたくさんとれました。古代は、江戸から船で木更津行つてゐたので、近い所、つまり、房総を上総、遠い千葉の西北と茨城を下総と呼びました。これからもわかりますよね。占領軍(進駐軍ではない。占領軍を進駐軍と呼ばせたのはGHQです)は、我が國の神道ぶちこわすために、傳統の破壊と日本人の愚民化を進め、その一環として大麻取締法を出しました。

 大麻は、安らぎの成分を出すので、本来なら末期がんやエイズの人には生きる意欲を與へる有効なものださうです。大麻は、覺せい剤などと違つて幻覺性をもたらすものではありませんし、常用性を促すものでもありません。健康面に限れば、たばこより安全と云はれています。なぜ、禁止が續いてゐのか、皆目見当もつきません。


 さて、十七条憲法です。今日から第六条です。

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