選擇(皇紀弐千六百七十六年七月十六日 弐)

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 繁體字で書きましたが、今の漢字では「選択」です。普段、何氣なく使つてゐる言葉が、實は、佛敎用語だつたの云ふものを紹介してゐます。

 みなさん、佛敎用語では、これは、「せんじゃく」「せんちゃく」と讀むんですよ~。

 あつ、それと、私は、人から、よく信心深いと云はれますが、決してさうではありません。それにこんな男が信心深い譯がありません。ただ單に、自分をまう一歩いや、まう、半歩進めやうともがいてゐる、人間にすぎません。いや、マイナスかな?

 繰り返し書きますが、三十歳の時、ある事件があつて、自己改造を自分自身に求めました。でも、苦しくて、できなくて、惱んで、何をしていいかわからなくて眠れない日が續きました。あるとき、すがるやうに坐禅に行きました。
 坐禅を組み終はつたあと、和尚さんがお話をくださいます(説敎)。

 その話に、生意氣だつた私は反撃しました。

寳「和尚さんは、そんな偉さうなことと仰ってゐますが、自分ではできてゐるのですか?」


 和尚さんは、この世のものとも思へぬ素晴らしい笑顔で答えてくれました。

和「いいえ」
寳「では、なんで、そんな偉そうなお話を私たちにされるのですか?」

 次の瞬間です。

和「自分の小ささを知るためです」

 私は、その瞬間、目からうろこが、何百枚も落ちました。

「さうか~、今までの自分は、自分を大きく見せやう、大きくみせやうとしていたんだ。だから、不足する自分に不安や不満を感じたし、その不安や不満を責任転嫁していたんだなあ。小ささを知れば、そんな必要はないんだ」

 選擇とは、「善を學びとつて、惡を捨てる」ことださうです。それによつて、佛の心にかなつた生き方を臣民がする道なのださうです。

 「摂取不捨」といふ言葉があります。天は、どんな惡も見捨てません。

 我が國は、八千數百年前から、三大神勅によつて世界で唯一の奇跡のやうな人間社會を築いてきました。

 でも、人間社會ですから、惡も當然あります。それを許し(祓たまへ清めたまへ)、そして、選擇ができた唯一の民族なのです。それを、敗戰後の不埒な嘘つき敎育と、憲法と云ふ名の文章でしかない、 邪教 日本國憲法によつて、臣民の目が曇っただけなのです。

 我が國の統治者である、今上天皇陛下が、今、まさに、私たち臣民に 最後のしつけをしやうとしてくださってゐます。くだらない「項目」「条文」ではなく、次世代に引き継げる「日本の心」の「選擇」ができる臣民を醸成してゐきませう。

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このページは、宝徳 健が2016年7月16日 00:20に書いたブログ記事です。

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