フランス革命と保守(皇紀弐千六百七十六年九月二十八日)

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 あの倉山満をして「この本を讀まずして保守を語るな」と言はしめる本「フランス大革命に抗して シャトーブリアンとロマン主義 伊東冬美著」を解説してゐ ます。今でも、多くのフランス人が、あの革命を心から悔やんでゐます。なのに、我が國は、「國民主權」といふ愚かな概念を賛辞します。

 共和國といふ言葉は、耳に心地がよいのですが、實は、とても恐ろしい言葉であり、政治體制です。

 それと、立憲君主國においてよく云はれる「君臨すれども統治せず」といふ言葉は完全なる間違ひです。特に我が國の場合には。

統治すれども支配せず

が正しいのです。左翼の上手な言葉の操作に騙されないやうにしませう。

 さて、貴族軍が結成されました。
 國王一家の亡命の意志を知つたアルトワ伯爵とコンデ將軍は、フランスのコブレンツに入り、王一家を待ちます。

 しかし、二人の耳に入つてきたのは、國王一家到着の知らせではなく、國王一家がヴァレンヌにおいて、捕縛されたと云ふものでした。

 二人に、二通のルイ十六世からの親書が届きます。

 一通は、貴族軍を解散しろといふ命令書。もう一通は、亡命貴族は貴族軍を維持し、フランス王國を守るために革命はを打倒せよとの命令書でした。

 お分かりですね。二つの政治勢力に王が利用されていたのです。

 ルイ十六世の眞意は、もちろん後者です。

 アルトワ伯爵は、ルイ十六世の眞意を汲み、1791年8月20日ヴィーンにおいて、オーストリア皇帝レオポルト二世に會見します。アルトワ伯爵は作戦を披露し、貴族軍への支援を懇願しました。

 しかし、レオポルト二世は作戦を聞き流した上、支援の諾否も明らかにしませんでした。ただ、一週間後に、プロイセン國王 フリードリヒ・ヴィルヘルム二世と會談するので同席するやうにと告げました。

 三者會談がはじまります。

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このページは、宝徳 健が2016年9月28日 07:55に書いたブログ記事です。

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