七世紀の世界史における我が國(皇紀弐千六百七十六年十月八日 參)

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 「日出處天子致書日沒處天子無恙(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや)」。西暦607年に我が國が外交デビューしたときの聖德太子の文章です。隋の皇帝煬帝にあてた手紙です。なんと格調高く堂々とした外交文書でせうか。このぐらいの外交をしなければなりません。

 このころ、我が國の國家としての體裁が整つてきました。白人中心史觀に立たなければ、七世紀は世界史にとつて重要な世紀です。

 ユーラシア大陸の東のはずれの日本が世界史に登場したのです。この後、白村江の戰ひ、遣唐使による律令國家の建設と、續きます。そして、894年に菅原道真の建言で、大陸との交はりを絶ちます。十九世紀まで我が國は、世界史に登場せず、獨自の文化をはぐくみます。

 歴史を見直してください。我が國は、支那大陸との交はりがないときは、とても平和で文化が充實するのです。支那大陸とのかかはりが深くなると、國内が亂れます。田中角栄も餘計なことをしたものです。
 我が國が交はりを絶つアジアには、二大帝國が出現しました。618年に建國され、支那大陸から中央アジアを支配した唐帝國と、610年にムハマンド(マホメット)が創始したイスラム教がアラビア半島を支配し、百年もたたずに全盛期のローマ帝國以上の版図を築いたイスラム帝國です(倉山満 日本人だけがしらない本当の世界史 より)。

 東はパキスタンから西はモロッコまで勢力を伸ばし、今に至るイスラム文化圏を形成しました。科学技術においては、イスラムが最先進地域となります(同)。

 イスラムは非常に穏やかな宗教でした。それを、キリスト教(カトリック教會主義)が現代になっていじめにいじめるので、原理主義的な行動が目立ってきました。キリスト教徒は、征服した土地の人間をむちゃくちゃにしますが、イスラム教は違います。イスラム教がイベリア半島を支配していたときの歴史をみてもそれがわかります。

 その頃、キリスト教 カトリック教會主義によつてめちゃくちゃになってしまつた、歐州は、書物がないので、歴史に登場してきません。十字軍の遠征が始まるのですが、十字軍に遠征された東方の國々が記録したものでかろうじてわかるぐらいです。

 では、十字軍とは。つづく

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このページは、宝徳 健が2016年10月 8日 10:55に書いたブログ記事です。

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