十七条憲法(皇紀弐千六百七十六年十月十八日)

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 やうやくパソコンが復活しました。ないと不便なものですね。でも、登録してあつた繁體字をまた一から登録しなければなりません(涙)。ブログを書くのに時間がかかること。

 さて、十条の条文の譯からでしたね。難しいとお感じの方もいらっしゃるかもしれませんが、江戸時代の寺子屋初等教育では、この十七条憲法(604年)と鎌倉時代の貞永式目(1232年)が定番でした。ただの讀み書きそろばんではなかつたのです。そろばんなんて、ただそろばんを入れるだけではなく、塵劫記(じんこうき)という高等数学レベルの本が、庶民の家に一冊必ずありました。

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 十七条憲法と貞永式目を學べば、我が國がどのやうな國かがわかります。十七条憲法で國家、人としての在り方、そして、貞永式目で守るべきルールがわかります。今の民法の取得時効の概念など、貞永式目のころから定められてゐます。

 かういふ基本中の基本の勉強がないから、今の私たちは腰が弱い。何かあるとすぐにへなつとなつてしまひます。

 では、本日は、十条の譯を。
第十条
 心の中で恨みに思ふな。目に角を立てて怒るな。他人が自分にさからつたからとて激怒せぬやうにせよ。人にはみなそれぞれ思ふところがあり、その心は自分のことを正しいと考へる執着がある。他人が正しいと考へることを自分は間違つてゐると考へ、自分が正しいと考へることを他人は間違つてゐると考へる。しかし自分が必ずしも聖人なのではなく、また他人が必ずしも愚者なものでもない。両方とも凡夫にすぎないのである。正しいとか、間違つてゐるとかいふ道理を、どうして定められやうか。おたがいに賢者であつたり愚者であつたりすることは、ちやうどみみがね(鐶:金属製の輪)のどこが初めでどこが終はりだか、端のないやうなものである。それゆえに、他人が自分に對して怒ることがあつても、むしろ自分に過失がなかつたかどうかを反省せよ。また自分の考えhが道理にあつてゐると思つても、多くの人々の意見を尊重して同じやうに行動せよ。

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このページは、宝徳 健が2016年10月18日 03:41に書いたブログ記事です。

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