ポリティカル・コレクトネス(皇紀弐千六百七十六年十二月九日)

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 昨日は、大東亞戰爭開戦日でしたね。武士が戰つた日清日露、官僚がぶち壊した大東亞戰爭・・・・。何度考へても悔しい、悲しい。

 まあいいや。一昨日の産經新聞に曽野綾子さんが素晴らしい記事を書いていらっしゃいました。曽野さんの産經の記事「透明な歳月の光」はいいですね。

 一昨日のテーマは、「ポリティカル・コレクトネス(以下、PC)」です。「政治的妥當性」です。
 曽野さんはこう書いてゐます。

「本來、政治的にどのような姿勢が妥当だか、決めることはできない。しかしこの場合「妥当性」がこだわるのは、人間の内面的な倫理でhなく、「言葉、表現、行動などの政治的見地から見た正しさ」、つまり表面的なものだとされている。要するに公的な場よで差別的表現を使ったり、ヘイト・スピーチをしたりしないことが」

「ここ数年、日本のPCに対するマスコミの執着はすさまじいものだった。つまりPCの姿勢さえ見せれば、自分も自分の社も人道的に正しい存在である。それゆえ、そうでない人の文章は没にするか、書き手の態度をどこかでやっつければいい、というまさに表現の暴力であった」

 確かにさうです。「残業」=惡。難民=なぜ日本は受け入れない。原子力=だめ。憲法改正=とんでもない。・・・・・・・

 最近のマスコミは、おきれいごとを述べ續けてゐます。自分たちが作り上げたアンチPCの人間はやりだまにあげます。人を惡者にすることで、自分は人道主義者だと叫んでゐます。

 私は、ほとんどテレビを觀ませんが、家にいるときは、なんとなく眺めてゐます。報道番組を觀てゐると、同じ局内で時間的に繰り返し報道されているニュースの内容だけではなく、チャネルを變へても、報道されるニュースの内容が同じことの繰り返しなので辟易としてしまひます。

 PCに沿つた内容しか報道しないからです。

 もし、私が公な場で、「電通十か条(でしたっけ)はよい内容ではないか」でもいはうものなら袋叩きにされるでせう。

 「いじめ問題」でもさうです。「いじめをなくせ~」「いじめをなくせ~」とPCを叫んでゐますが、人間社會のなかで「いじめ」がなくなれば苦労しません。

 それよりも「いじめへの効果的對處方法」をなぜ論じないのだらうか? 自分より強いものに對しては、「戰ふか」「從ふか」「ディフェンスするか」「誰かに助けてもらふか」しかないのです。

 どの戰略をとるかはその人次第ですし、そのために、武器をそろへなければなりません。

 PCになれた大衆に、こんなことを云ふと、寳德はひどい奴だとなります。

 私は家族が誰かか何かの勢力かにいじめられていたら、命を懸けて守ります。そして、守つてゐる間に、家族と戰闘體制を整へます。「いじめないで」なんて絶對に云ひません。

 PC・・・・、怖いですね。

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このページは、宝徳 健が2016年12月 9日 03:37に書いたブログ記事です。

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