贈り物(皇紀弐千六百七十六年十二月二十日)

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 お歳暮をいただいたり贈つたり。

 「送る」と「贈る」は同語源ださうです。だから「贈り物」は「送り物」。
 我が國では、直接、贈る人に渡さず、人に託して届けることが多かつたさうな。

 英語は、「present」。「presence」を示すといふやうに(自分の存在感を示す)、本来の意味は、目の前にゐる自分の存在感を示して、相手に渡すものです。

 だから、直接相手に渡すのが歐米人の流儀です。

 習慣の違ひを感じますね。

 そして、我が國は、「包みと結びの文化」です。贈り物に、風呂敷と水引が、贈り物をさらに豐にします。

 足利義満は、大湯殿を作り、大名たちを招いてもてなしをしたさうです。その際、大名たちは、荷物を取り違えないように、脱いだ服を家紋入りの絹布で包んみました。風呂から上がると包みを解いて、床に敷き、その上で着替えたことから、この布をやがて「風呂敷」を呼ぶやうになりました。風呂敷の名前が広く使われるようになったのは江戸時代からだそうですが、始まりは室町時代だったのですね。

 祝儀包みの鶴や松などの華やかな水引細工は慶事にふさはしいものです。水引細工自体は、金沢や富山などの北陸から新潟にかけて盛んで、この地方では嫁入り修行のひとつに水引細工を習うこともやられていたそうです。そして、祝儀包みに結ぶ水引細工は、長野県飯田市が産地として知られているわうです。へー。
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 飯田市は元々は、髪を結う元結の産地で、これを基盤にして水引細工が興り、その生産は農家の手内職に支えられて現在に至つてゐます。

 その細工は芸術の域に達成してゐます。

 祝儀包みの水引でもっとも大切なことは、「包みをこれで結ぶ」といふことです。品物に応じた結びの方法が集大成され、結びが作法として樣式化されました。

 万葉集に以下の歌があります。

磐白の 浜松が枝を 引き結び まさきくあらば またかへり見む

二人して 結びし紐を 一人して 吾は解き見じ 直にあふまでは

 最初の歌は、磐白の浜野松の枝を結び合わせてまた帰つて來られるやうに旅の無事を祈る歌です。二番目の歌は、朝、二人で結んだ袴の紐を一人で解くことはしない、また二人で逢うときまでは、といふ男女の別れです。松の枝に無事の願ひを込め、まが袴の紐の結びに二人の戀の誓ひをこめてゐるのです。

 いいですね~。和歌は本当に素敵です。こういうやりとりができたら、人間の心は澄むのでしょうね。私たちはこの文化と民族の能力を葬り去つてしまひました。つづく。

 では、拙首です。

祈りにも 別れにもむすぶ その心 大和の国の うるわし心


むすびのあと つつみを学ぶ たのしみに 文化の深さ 先人の知恵

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このページは、宝徳 健が2016年12月20日 05:53に書いたブログ記事です。

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