大石邦子さん(皇紀弐千六百七十六年十二月二十九日)

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 私のサラリーマン時代の最初の赴任地は福島県の郡山出張所でした。當時の出光興産は、「大地域小売業」といふ理念がまだ色濃く残つてゐました。出張所長といへともかなりの權限をもってゐました。支店・出張所も必ず直營ガソリンスタンドの上にありました(どんな大きな支店でも)。

 なんでも私と一緒に郡山に赴任したもう一人の同期は、新入社員としては、初の出張所勤務なんだとか。實驗ですね(笑)。でも、樂しかつたなあ。支店のやうに、〇〇課とか分かれてゐませんので、わけがわらないなか、全部自分でやります。人数が少なくみんな忙しいから頼つてもいられません(ずいぶん助けてもらいましたが)。ガソリンスタンドの全面改装もやらせてもらいました。「こんなの任されていいのかなあ。こんなにお金を使つてもいいのかなあ」と思いました。福島第二原發の新規稼働にタービンオイル納入もしました。何度も何度も配管に試油を通して、やうやく最後に、ローリーでタービンオイルが流された時には、涙が出さうになりました。

 仕事について先輩に「どうすればいいですか?」と質問をすると無視されました。「こうします」と言はないと仕事が通らなかつたのです。
 
 私たちのころには、福島県は、郡山出張所だけでしたが、その前には會津出張所もあつたやうです。
 その會津出張所で、ある事件が起きました。大石邦子さんといふ女子社員が、通勤途中に事故に遭い、半身不随になつてしまつたのです。名前は大石邦子さんです。悲しみに打ちひしがれる大石さんを見舞つた、古今東西最高の經營者 出光佐三店主は、お見舞いに行き云ひました(あれほどの會社の社長が一女子社員のお見舞いに行くのもすごいですが)。「僕のことをおじいちゃまと呼びなさい」と。まさしく、企業經營において、我が國の國體「シラス」を實践されてゐます。これがかつての出光です。

 月間致知 平成27年5月號に大石邦子さんが出ていらっしゃいます。その内容です。

大石 私は出光さん(出光興産創業者・出光佐三氏)
に出会っていなければ、
いままで生きてはいられなかったと思います。
本当に支えていただきました。

私は出光興産に勤めていましたが、
こういう体になって再起の見込みはないと
医師に宣告されましたので、退職しました。

それから二年くらい経って、
まず本社の人事部長さんが訪ねて見えました。
何だろうと思いました。
「店主(出光氏)に『東北の子供が事故に遭って
動けなくなって退職したと聞いたが、本当か』と聞かれた」と。

そして「君は自分の子供が病気になって動けなくなったら、
その子は要らないと言うかね」と言われ、
様子を見てくるように言われたのだそうです。

出光興産は「大家族主義」といって、
社員は家族と一緒、出光さんにとっては
全員が子供だというお考えで定年制もない会社でした。

といっても、私は既に辞めた人間です。
それなのに今度は雪深い初市(一月十日)の日、
出光さんご本人が来てくださったのです。
「くーちゃん、来たよ」と言って私の手を握り、
「私もこれまで〝出光は自殺するのではないか〟と
噂されるほど苦労もした。
その苦しみがいつか楽しみに変わった。
くーちゃんも、必ずそうなるからね。頑張りなさい」と。

そして、「君のご両親は私の息子と
同じくらいの年齢だから、君は孫だ。
きょうから〝おじいちゃん〟と呼びなさい」とおっしゃったんです。

もちろん、一度もお呼びしたことはないですが、
亡くなられる直前まで、
いつも「おじいちゃんだよ」とお電話をくださいました。

ーー大石先生に宛てた手紙にも、
「私は主義に生きるため、努めて苦難の道を選び、
死に勝る一生を送りました。
この苦しみは八十を過ぎて私の楽しみとなり、
老後のしあわせを喜んでおります」
 と書かれていたと紹介されていましたね。
何ていうか......すごい境地ですよね。

大石 出光さんは美術館を持つほどの美術愛好家で、
本社の店主室には文化勲章を
もらった方々の陶芸なども飾られていました。

そこにですよ、「私がリハビリでつくりました」と
報告のために送ったものまで
一緒に飾ってくださったりしたんです。

いつも「困ったら何でも言いなさい」と
おっしゃってくださいましたが、
ここまで愛情を注いでいただいて、
さらに何かお願いするなど、
絶対にあってはいけないと思って生きてきました。

私と出光さんの交流なんて
出光の関係者の方々しか知らないと思いますが、
出光さんに何か傷をつけるような
生き方だけはしてはいけないと。

これまで生きてきて、一番強く心に誓った方でした。(致知記事ママ)

 大石邦子さん 二十二歳の時です。

 一度郡山出張所で大石さんにお逢いしたことがあります。軆體があのやうな状態なのに、本當におだやかに、そして澄んだ目。この時に思ひました。「身障者の方々とは、なんと素敵なんだらう。私たち健常者は心障者だ」と。

この生命ある限り (講談社文庫)

 その後、癌になられたやうです。でも、動画などを見るといまでもお元気さうです。81歳になられるのですね。

 かつての出光興産にはドラマを創り出す力があつた。

 それが「眞に働く姿を顕現し國家社會に示唆を與へる」といふ出光興産第二定款の意味なのでせう。

營なみが ひとつの會社の 營なみが 生き方創り 生き方示す

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このページは、宝徳 健が2016年12月29日 05:01に書いたブログ記事です。

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