年の湊(皇紀弐千六百七十六年十二月二十八日)

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 季節の美しい言葉を時々紹介してゐます。

 今日は「年の湊(としのみなと)」です。

 一年のをはりをあらはす言葉はたくさんあります。年の暮れ、年の関、年の奥、年の瀬、年の岸、年の坂、年の峠、年の梢。。。。そして、年の行き着くとことといふ意味で、「年の湊」。

 どんな過ごし方をするかによって、年末をどう感じられるかが變はつてくるのでせう。行き着くところととらへるなら、時間は船ですね。年の湊は、新たな希望を詰め込む場所なのかなあ。

 私たち日本人は、節を大切にしてきました。
 生きていれば、自分に都合がよいことばかりは起きません。むしろ、自分に都合の惡ひことが起きます。それを神樣からの贈り物ととらへ、乘り超えることにより、自分を成長させる。自分で自分を變へることがなかなかできないのが人間です。なら、その不合理・不都合・鬱陶しさ・理不尽に自分を變へてもらふしかありません。

 神樣は、自分が解決できない宿題をその人に與へないと云ひます。なら、宿題やらなきゃね。

 現状維持では幸せの総量は決まつてゐます。だから、人を幸せにしやうとすれば、自分の幸せを削るしかありません。自分の幸せを削るのは誰でも嫌です。

 では、どうするか。「成長」なんです。成長したら、人に分け與へる幸せの部分が増えます。それを、お互いに分け與へます。己を鍛へて、有した力を互いに使ひ合ふ。それが、「分け合つて餘らせてきた」我が國の武士道の文化であり、それを一番實践したのが婦道を有した我が國の優秀な女性たちでした。「奪い合つて足りなくした」支那や歐米とは違ひます。

 さてと、來年は、どんな宿題を神樣がくれるかな。それを年の湊に積み込まなくてはね。不都合・不合理・鬱陶しさ・理不尽。素敵な言葉ですね。勞働! いや~な言葉ですね。

不都合も 不合理・理不尽 乘りこえる 湊に宿る 神の宿題

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このページは、宝徳 健が2016年12月28日 07:18に書いたブログ記事です。

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