屠蘇(皇紀弐千六百七十七年元旦)

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 明けましておめでたうございます。旧年中は大變お世話になりました。本年もよろしくお願い申し上げます。本年の目標やルーティンや期日計画は明日、ブログに掲載します。

 久々に、家でゆつくりしました。午後から休みにしたので。テレビも観ました。私は藝能人の名前をあまり知らないので、「あれ誰?」「これが?」と聞きながら観ます。息子は解説付きで優しく教えてくれるのですが、ガミさんは、うるさいな~といふ顔をして、「うるさい」と云ひます。

 あの語尾上げ言葉、「あの~⤴」「だから~⤴」「それで~⤴」の醜いしゃべり方、「ら」抜き言葉。「全然大丈夫です」が亂發されてゐます。聞いていて悲しくなります。あと、あの、なんだか男か女かわからない「なんとか ちぇる」と云ふタレントが「籍を入れさせてもらいました」と。おいおい、だれに入れさせてもらったの?自分たちで入れたんだらう?「籍を入れました」でいいの。

 「ザ・イエローモンキー」といふ名前のグループがゐるのを知つてびつくり!!! なんといふ自虐的な名前なんでせう。恥ずかしくないのかなあ???

 と、私はテレビを観ないはうがいいですね・・・・(涙)。

 ガミさんから「屠蘇を作れ」といふ至上命令が下りました。作ってゐるときに屠蘇の袋に、屠蘇の言はれが書いてありました。前にも書いたことがありますが、自分でも思い出したいので再度書いておきます。
 まだ、メディアや作家に騙されていたころ、支那の讀み物は大好きでした。四書五經は、もちろん、三國志、水滸傳、戰國策、史記、項羽と劉邦、十八史略などなど、たくさん讀みました。特に三國志は大好きでした。でも、あれは、三國志演義で、實際の三國志は、違ふものだと知つたときには、とても悲しくなりました。

 例へば、「泣いて馬謖を斬る」といふ有名な言葉があります。馬謖とは、諸葛亮孔明の後繼者とされていた人物です。とても優秀な人物です。我が國に紹介されてゐる、三國志演義を母体にした三國志では、馬謖は、自分の才におぼれ、魏との戰爭のときに、重大なミスを犯し、蜀軍を壊滅の危機にさらしたとされてゐます。その軍規違反で惨殺されたと。

 でも、實際は、諸葛亮孔明が、馬謖の才能を恐れ(自分の地位が脅かされると思つた)、馬謖に罪をきせて殺してしまつたのです。まあ、支那では、當然のことです。才ある人間は、亂世では、重用されますが、平和になつたら、すべて殺されてゐます。韓信しかり。近いところでは、林彪などもさうです。

 それでも三國時代があつたのは本當です。あの支那でもそこまで嘘はつききれないでせう。

 屠蘇は、その三國志の頃、に活躍した天下の名医 華佗(かだ)が、一年間の災難厄除のために、山椒、防風、細辛、桔梗、大黄(だいおう)など種々の藥草を調合して酒に浸して飲んだのが始まりとされてゐます。邪氣を「屠(ほふ)り」、魂を「蘇らせる」ので「屠蘇」となりました。

 華佗は、魏の曹操や蜀の関羽も診察したといはれてゐますが、まあ、支那の云ふことなので、どうかわかりませんが・・・・。

 さあ、屠蘇はうまくつかってゐるだらうか?

邪氣屠り 魂蘇生し 新しき 年を祝ひて 健康願ふ

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宝徳さん

あけましておめでとうございます。
旧年中は本当にお世話になりました。今年もよろしくお願いします。

深田さん、あけましておめでとうございます。こちらこそよろしくお願い申し上げます。一緒に「誰が正しいかではなく、何が正しいか」を探求していきましょう。

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このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2017年1月 1日 00:12に書いたブログ記事です。

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