まだ、三日になつてゐませんが、明朝早いのでルーティンの一つであるブログを済ませておきます。
私は、家でサラダを食べるときには、スタミナサラダにして食べます。基本のサラダが、キャベツと玉ねぎとブロッコリー、そこに、納豆と生卵とキムチを混ぜます。かうすると飽きない。元旦に、このスタミナサラダを食べやうと卵を割ると、なんと双子。生まれて初めてです。おみくじも大吉だつたし、今年は、春から縁起がいいや(笑)。
おみくじは、凶や大凶にもなつたこともありますが、これも縁起がいい。要は本人の心の持ち方です。天からのメッセージ。
讀賣新聞の夕刊は面白いですね~。木下元財務次官を天下りで受けた讀賣の經濟欄は御用新聞です。政治欄は少し面白い。社會欄はPC(ポリティカル・コレクトネス)です。元旦の朝刊の社説はひどかつた。
それに比べ、夕刊は文化部が中心なのでせうか? 安心して讀めます。昨年十二月十七日の夕刊に掲載されていた、「福知山」の記事もよかつた。抜粋して要約しながら紹介しますね。
私は、家でサラダを食べるときには、スタミナサラダにして食べます。基本のサラダが、キャベツと玉ねぎとブロッコリー、そこに、納豆と生卵とキムチを混ぜます。かうすると飽きない。元旦に、このスタミナサラダを食べやうと卵を割ると、なんと双子。生まれて初めてです。おみくじも大吉だつたし、今年は、春から縁起がいいや(笑)。
おみくじは、凶や大凶にもなつたこともありますが、これも縁起がいい。要は本人の心の持ち方です。天からのメッセージ。
讀賣新聞の夕刊は面白いですね~。木下元財務次官を天下りで受けた讀賣の經濟欄は御用新聞です。政治欄は少し面白い。社會欄はPC(ポリティカル・コレクトネス)です。元旦の朝刊の社説はひどかつた。
それに比べ、夕刊は文化部が中心なのでせうか? 安心して讀めます。昨年十二月十七日の夕刊に掲載されていた、「福知山」の記事もよかつた。抜粋して要約しながら紹介しますね。
京都府北西部に由良川があります。この由良川は、舞鶴の方まで流れていつてゐますが、季節になると、下流近辺でとれるミカンがとてもおいしいのです。
その由良川流域の盆地に廣がるのが福知山市です。街を見守るやうに中心部の丘に立つのが、戰國武將 明智光秀が發展の基礎を築いた福知山城です。
光秀は、天正七年(1579年)頃、信長の命を受け、丹波を平定しました。そして、それまで横山城と呼ばれてゐた領内の城を回収し「福知山城」と改名しました。この名前が、街の名前の由來とされてゐます。
本能寺の變で主君 信長を討ちましたので逆臣のイメージが強い光秀ですが、この地では、全盛を敷いたので、今でも、光秀ファンがほとんどです。福知山といふ名前の由來は、たくさんあるのですが、一番有名なものを紹介しておきませう。
和泉式部(平安時代)がこの地で詠んだ歌です。
光秀は、「ふくち」の讀みに縁起のよい「福」と自らの苗字の「智」を充てたとされてゐます。その後「智」が「知」に變化したさうです。
光秀を祀る同市の御霊神社(ごりょうじんじゃ)にさう書かれてゐるさうな。
同神社の足立宮司は「領地に山ほど福が來るようにと願いを込めたのでせう。和泉式部の歌を参考にしたのも、和歌や連歌に精通していた光秀らしい」と讀み解きます。
髙校の時に百人一首で習ひましたね。和泉式部の歌です。
和泉式部つて、とても戀多き女ですよね。一方の光秀は、側室を置かず、正室 熙子(ひろこ)だけを愛しました。う~ん、光秀も、實は結構 情熱的だつたのかも。
他國では、逆臣とレッテルを貼られると歴史上浮かび上がることは至難の業です。我が國は敵も味方も愛します。良い記事ですね~。
ルーティンは今日からやりますが、このブログでの結果報告は4日からです(前日の報告を)。
その由良川流域の盆地に廣がるのが福知山市です。街を見守るやうに中心部の丘に立つのが、戰國武將 明智光秀が發展の基礎を築いた福知山城です。
光秀は、天正七年(1579年)頃、信長の命を受け、丹波を平定しました。そして、それまで横山城と呼ばれてゐた領内の城を回収し「福知山城」と改名しました。この名前が、街の名前の由來とされてゐます。
本能寺の變で主君 信長を討ちましたので逆臣のイメージが強い光秀ですが、この地では、全盛を敷いたので、今でも、光秀ファンがほとんどです。福知山といふ名前の由來は、たくさんあるのですが、一番有名なものを紹介しておきませう。
たには(丹波)なる 吹風(ふくち)の山の 紅葉は 散らぬ先より ちるかとそ思ふ
和泉式部(平安時代)がこの地で詠んだ歌です。
光秀は、「ふくち」の讀みに縁起のよい「福」と自らの苗字の「智」を充てたとされてゐます。その後「智」が「知」に變化したさうです。
光秀を祀る同市の御霊神社(ごりょうじんじゃ)にさう書かれてゐるさうな。
同神社の足立宮司は「領地に山ほど福が來るようにと願いを込めたのでせう。和泉式部の歌を参考にしたのも、和歌や連歌に精通していた光秀らしい」と讀み解きます。
あらざらむ この世の外の 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
和泉式部つて、とても戀多き女ですよね。一方の光秀は、側室を置かず、正室 熙子(ひろこ)だけを愛しました。う~ん、光秀も、實は結構 情熱的だつたのかも。
他國では、逆臣とレッテルを貼られると歴史上浮かび上がることは至難の業です。我が國は敵も味方も愛します。良い記事ですね~。
ルーティンは今日からやりますが、このブログでの結果報告は4日からです(前日の報告を)。
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