日章丸事件當時の出光興産㈱は、まだ、製油所を有しませんでした。原油を持つてきても、ガソリンや灯油などの石油製品にする能力を有していなかつたのです。他に頼むしかありませんでした。いつも供給に不安を抱えながら經營をしてゐたのです。
そんな中、日章丸は、出光興産㈱の虎の子でした。當時、世界最大のこのタンカーが拿捕されると、出光興産㈱は、石油製品が手に入らなくなり倒産してしまう危機にさらされるのです。
その虎の子を、英国軍艦に拿捕される危険性をはらみながら、イランに派遣した、出光佐三店主をはじめ、當時の出光興産㈱の社員の方々の胆力と偉業をお樂しみください。かつての出光興産㈱には、ドラマを創り出す力があつた。
今年九十歳になる親父が命を振り絞つて書いてゐる「日章丸事件」を數囘に分けて紹介してゐます。原文ママです。
イギリスとの衝突を恐れる日本政府との対立も憂慮し、第三国経由でイランに交渉して専務の出光計助と手島常務(元陸軍大佐・大本営参謀-通訳)を昭和27年(1952)に極秘派遣。モハマンド・モサッデク首相などイラン側要人を会談を行う。
イラン側は、合意しても貿易ができないでいる前例と、当時中小企業に過ぎなかった出光興産㈱を見て、はじめは不信感を持っていたという。
長い交渉の末に合意を取り付け、国内外の法を順守するための議論、日本政府に外交上の不利益を与えないための方策、国際法上の対策、法の抜け道を利用する形での必要書類の作成、実行時の国際世論の行方や各国の動向予測、航海上の危険個所調査など準備を入念に整えて、日章丸は、昭和28年(1953)3月23日午前9時、神戸港を極秘裏に出航する。
つづく
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