日誌は三月からまた再開します。今日から三月三日まで、ほぼ合宿状態。ある会社のオフィスに私の机を置いてくれてゐます。パソコンも本棚も。そこで、夜なべ~。
今でも、夜なべといふ言葉は使ふのだらうか??? 夜ふかしも使わなくなったなあ。
ハンガーは えもんかけ と云ひました。コートは外套。せいぜいオーバーコート。 アベック・・・。つっかけ。えりまき(マフラーのこと)。ちり紙。ねじまわし。乳母車。天花粉。さじ。
まあいいや。
昨日、體重を測つたら7.5.5㎏!!! 一昨年九月の入院前は84.5㎏あつたので、9㎏減りました。
お詫びしなければなりません。土脉潤起は、雨水の初候でした。
霞始靆が雨水の次候です。明日までです。「かすみはじめてたなびく」と讀みます。
霧やもやのため、遠くの山や景色がほのかに現れては消え、山野の情景に趣が加わる頃です。春に出る霧を霞(かすみ)と呼び、夜の霞は朧(おぼろ)と呼ばれます。
ちやうど今、源氏物語は、朧月夜を書いてゐます。
三島由紀夫の文學的遺言である「小説とは何か」を讀みながら正しい日本語を學習してゐます。
深き夜の あはれを知るも 入る月の おぼろけならぬ 契りとぞ思ふ
ある女性が「朧月夜に・・・」と呟きながら來たのに對して、そふぇをうけて「こんな月夜のあはれを知るあなたは、入る月とも深い契りがあつてのことでせうね」と問ひかけたのです。「入る月」は、もちろん忍び込んできた光源氏自軆のことです。
今日は、Sなので部員の日誌です。安河内くんです。
九大の山口先輩が來てくれてゐますね。九州大學へは、よく私も練習に參加させていただきました。
昭和五十一年十月二日です。
C なので今日は、私のキャプテン日誌です。
博多の東公園の近くにテニスショップかわのといふ店がありました。といふか、今、檢索したらまだあるのですね。僕たちは、このテニスショップ夫婦に女の子が生まれた時までしか知りません。娘さんが繼いだのかなあ。その後息子さんが生まれたのかなあ?
當時、ご夫婦は三十代。私たちが十七か八。とてもきれいな奥さんで、何か賈ひに行く用事がなくても、クラブ帰りにはよく遊びに行つてゐました。お菓子やお茶を出してくださいました。
テニスもとても上手で、當時、関東学生女子チャンピオン(全日本ランカー)の永田さん(福髙OB)と組んで九州大會などに出場してゐました。私たちの練習にもよく參加されてゐました。今日の日誌は、永田さんと河野の奥様が練習に參加されたときです。
練習場所は、東公園テニスコート(アンツーカーとクレーがありましたがアンツーカーは借りると髙いので、クレーで)。學校にあるコートは1面。これだけだと、下級生に十分練習をさせてあげられないので、週に弐囘ほど東公園のテニスコートを借りてゐました。
今は、県庁がたつてしまひ、もうテニスコートはありません。
今は、二十四節氣では、「雨水(うすい)」です。七十二候では、雨水 次候 土脉潤起です。「つちのしょううるおひおこる」と讀みます。
冷たい雪が暖かい春の雨に代はり、大地に潤いをあたへる頃です。寒さもゆるみ、眠つていた動物も目覺めます。
今よりも、純粋にそして懸命に生きた高校時代。部長もコーチもいないに等しかつた私たち、福岡高校硬式テニス部(昭和五十二年)は、全國大會に出場しました。何もかもが手探りでした。學校からおりてくる與算もほとんどありませんでした(野球部などは弱かつたのに私たちの倍はあつた)。みんなで月に千円ずつ祓ひ、ボールを賈つたりしました。テニスシューズは、一番安い、スイングベア。いきつけのテニスショップかわので、つけにしてもらい、分割で祓ひました。
當時、全國大會で、何連覇もしてゐた柳川商業に練習試合に行つたとき、クレーコート7面、ハードコート3面。ボールはすべてニューボール、ガットはシープガット(羊の腸でつくったガット:最高級。私たちはナイロンガット)、シューズはコンバース・・・・・。うらやましかつたなあ。
先日のテニス部日誌C(キャプテンとしての私の日誌)で、ボールのところで「ニュー缶」といふのは、まだ、缶をあけていないボールです。ニュー缶から出した直後が「ニューボール」。少し使うと「セットボール(ストロークボール)」になります。セットボールの毛がとれて空気も抜けたものが「クソボール」です。くそボールは、ボレーやスマッシュの練習に使ひます。
さて、今日は誰かな。 今日は Sです。部員の日誌です。
三島由紀夫の文學的遺産である「小説とは何か」を讀みながら、ただしい日本語を學習してゐます。
ひええ~。ルーティンがたがた。今日からまた長期ロード。出張中に亂れない自分を作らないと。まだまだ生きる課題は多いわい。
一昨日から、七十二候 次候 「魚上氷」です。「うおこおりをいづる」と讀みます。
春の暖かさで湖や川の氷が割れ、氷下で泳いでいた魚が氷の上に跳ね上がる頃です。温かくなった水の中に、ゆらゆら泳ぐ魚の姿がよく見え始めます。
今日から 七十二候 立春 次候 「黄鶯睍睆」です。「うぐいすなく」と讀みます。
ウグイスが馴染みのある美しい鳴き聲で、春の到來を告げる頃です。その年の一番初めに聞くウグイスの聲を「初音(はつね)」といひます。
しばらくブログが書けなくてすみません。
我が國がなぜ 世界で唯一 神話の世界から歴史で連續したか。それは「遺して」きたからです。
三島由紀夫の文学的遺書である「小説とは何か」を讀みながら正しい日本語の學習をしてゐます。
季節の素敵な言葉を時々紹介してゐます。今日は「春待ち顔(はるまちがお)」です。
このテニス部日誌は「S」が後輩の、「C」がキャプテンであつた私のものとして書きます。今日は、私の日誌です。昭和五十一年九月一日。
今より、はるかに眞險に生きてゐた時代でした。どんなに練習で苦しくても、試合で負ける苦しさよりも良いと思つてゐました。だから、「試合で勝てるなら、もつと苦しい練習を、もつと苦しい練習を」と思つてゐました。
かうやつて日誌も書いてゐました。貧乏部なので、OBに援助を求めるため必死にOBに手紙も書いてゐました。
インターハイ予選最終日には、「もし、インターハイの出場權が取れなかつたら、明日は、どういふ日になるのだらうか? 俺は、もし敗けたら生きていられるのだらうか」と、強烈なプレッシャーに襲はれました。
日誌CはSよりも事務的ですが、あの頃の自分を思ひだすために書きます。髙校の時の自分はこんなに字がきれいだつたかなあ(笑)。丁寧に書いてゐたんだなあ。
云ひ譯でしかありませんが、出張をしてゐとディフェンス力が弱くなりますね~。それと、なぜか朝寝坊してしまふ。朝ごはんも、ホテルのおいしい朝食をいただきます。普段の朝は、握り飯をかじりながら仕事をしてゐますが、このホテルの素敵な朝食には、ゆつたりとした時間を過ごしてしまひます(笑)。すべて云ひ譯です(涙)。
さあ、立て直し。
讀賣新聞の夕刊は樂しい。讀んでいてほっとします。
一月十四日の夕刊には京都の「千本通」が紹介されてゐました。アクセスは、京都市営地下鉄烏丸線今出川駅からバスで十分です。西陣織の職人さんたちが休みに繰り出す繁華街のすぐ近くです。
何年前だつたかなあ、このブログで、「福岡高校テニス部日誌」を連載しました。一度、このブログが事故に遭い、ある期間の記事がすべて飛んでしまひました。復活すればできないことはないのですが、とても手間がかかるのでやつてゐません。引退したらやらうかな。
我が母校 福岡県立福岡高等學校は、今年、創立百周年です。私自身の百周年事業として、もう一度書きます。後輩たちが書いてくれたものと、私のキャプテン日誌の二種類があります。キャプテン日誌は、前囘は書きませんでしたが、今囘は連載することとします。
では、まず、後輩たちの日誌から。 昭和五十一年です。